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オランダの宗教改革 : ミニ英和和英辞書
オランダの宗教改革[おらんだ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

オランダ : [おらんだ]
  1. (pt:) (n) Holland 2. The Netherlands, (pt:) (n) Holland/The Netherlands
ラン : [らん]
 【名詞】 1. (1) run 2. (2) LAN (local area network) 3. (P), (n) (1) run/(2) LAN (local area network)
: [そう, しゅう]
 【名詞】 1. sect 
宗教 : [しゅうきょう]
 【名詞】 1. religion 
宗教改革 : [しゅうきょうかいかく]
 (n) the Reformation
: [かい]
 (n-suf) revision
改革 : [かいかく]
  1. (n,vs) reform 2. reformation 3. innovation 
: [かわ]
 【名詞】 1. skin 2. hide 3. leather 4. fur 5. pelt 6. bark 7. shell 

オランダの宗教改革 : ウィキペディア日本語版
オランダの宗教改革[おらんだ]

ここでは、オランダ(低地地方ネーデルラント〔低地地方をあらわす(複数形)の発音は「ネーデルラント」よりも「ネーデルランド」に近い(厳密には「ネーデルランデン」)。(単数形)の発音は「ネーデルラント」であるが、これは今日オランダを指す。今日のオランダ・ベルギーを含む低地地方を「ネーデルラント」と日本語で表記することが多いが、これは適切とはいえない。この記事内ではオランダとベルギーを含む地域を「低地地方」と表記し、「ネーデルラント」は用いない。〕)の宗教改革について概説する。

== 低地地方と宗教改革 ==

メルセン条約によって東フランク西フランクに分属することとなった低地地方(ネーデルラント)は中世後期に至るまで政治的統一とは無縁であった。
しかし、14世紀ヴァロワ=ブルゴーニュ家の支配下にはいると、地域の政治的統一が促進されることとなった。その後、同家の断絶によりハプスブルク家がこの地を相続し、中央集権的な支配を及ぼそうとしたが、これに対して低地地方の貴族は不満を募らせ1568年に反乱し、やがて北部はオランダ共和国として独立した。オランダ共和国は改革派が多数であったわけではないが〔少なくとも「カルヴィニズム的北部」と「カトリック的南部」の分離が宗教的理由によるという見解はオランダ独立の歴史的な経過に即しているとはいえない。そもそもカルヴァン派の人口に占める割合は、北部よりも南部の方が当初は多かったのであるから、北部と南部の宗教事情の相違は分離の原因ではなく結果であると見るべきである。〕、独立の過程においては改革派が主導的な影響を及ぼし、やがて改革派の中心国家として台頭することになった。
;低地17州の歴史的経緯
12世紀までに、低地地方にはホラント伯やゲルデルン公、ブラバント公エノー伯ルクセンブルク伯フランドル伯などの世俗領主、ユトレヒト司教リエージュ司教といった教会領主が分立割拠していた。11世紀後半ごろからこの地域に対する神聖ローマ皇帝の圧力は減退し、低地地方は徐々に英仏両国の影響を受けるようになっていった。
低地地方南部で徐々に強大な勢力を確立したフランドル伯は、フランスとの対立を深め、とくにフランドル伯支配下の都市はイングランドとの通商関係での結びつきがあったことから、イングランド王に接近した。フランドル伯ボードゥアン9世の時代には、ノルマンディーをイングランド王ジョンから取り上げたフィリップ2世フランドルを窺う情勢となった。つづくボードゥアンの娘ジャンヌの時代に、イングランド王ジョン・神聖ローマ皇帝オットー4世と同盟し、フランス王権に挑戦したが、1214年ブーヴィーヌの戦いで敗北した。以降フランドルはしばらくの間フランス王権の掣肘を受けることとなる。
14世紀半ばに同地は相続を通じてブルゴーニュ家のフィリップ豪胆公の支配下に入り、この公国のもとで政治的統一が進められた。公国は財政的にも低地地方に大きく依存しており〔ブルゴーニュ公国の収入において大部分を占める臨時収入において、低地地方からの収入割合は75%を占め、経常収入においてもブルゴーニュ本領の収入は5%に過ぎなかった。(堀米庸三「ホイジンガの人と作品」『世界の名著67 ホイジンガ』p.64)〕、自然と公国の重心も低地地方へと移動した。このころすでに聖職者、貴族、有力都市民からなる身分制議会が低地地方でも開かれていたが、あらたに課税賛否権と請願権を与え、この議会は「全国議会(エタ・ジェネロー)」〔:、:。慣例で「全国議会」と訳されるが、この会議は低地地方全体の身分制議会ではなく、州ごとの身分制議会の派遣する使節団の会議というほうが実情に近い(川口博『身分制国家とネーデルランドの反乱』pp.10-11)。〕へと発展した。
14世紀にルクセンブルク伯領を領していたルクセンブルク家の当主が相次いで神聖ローマ皇帝となり、同家はやがて神聖ローマ帝国の東方に広大な家領を形成した。カール4世の時代にルクセンブルク伯はルクセンブルク公へと格上げされ、同家は最盛期を迎えるが、やがて15世紀初めには同家の男系は断絶し、その支配地域の多くは相続を通じてハプスブルク家の手中に収まった。
1477年シャルル突進公がロレーヌ・アルザス・スイス軍との戦いで戦死すると、フランス国内のブルゴーニュ公領はたちまちフランス王権に回収され、相続者マリーに残されたのは低地地方とフランシュ=コンテのみであった。マリーは同年ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世と結婚し、これらの地域もまたハプスブルク家の支配に収まった。


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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