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オリエンテ広場 (Plaza de Oriente)は、スペイン、マドリード中心部にある広場。スペイン王ホセ1世(フランス語名ジョゼフ・ボナパルト)が中世以来の住宅が立ち並んでいた場所を一掃させ、ナルシソ・パスクアル・イ・コロメルによって広場が完成した。マドリード王宮の東側にあることから、オリエンテ(東)広場と名づけられた。広場の東側はテアトロ・レアル、北側はラ・エンカルナシオン修道院である。 ==歴史== 18世紀につくられたマドリード王宮は東側に庭園がつくられていた。1808年から1813年までスペイン王であったホセ1世は、王宮周辺の建物を取り壊し、市内全体の道路とアクセスの良い都市計画を練った。その後フェルナンド7世は古い劇場を廃止し、王宮と向かい合う場所に新劇場(現在のテアトロ・レアル)をイシドロ・ベラスケスに設計させた。ベラスケスが指揮した計画では広場そのものは半円形で、ポルチコを設置し、劇場の両側に左右対称の住宅を3ブロックずつ連ねるものだった。 イサベル2世時代の1836年、フェルナンド7世時代に設計された建設計画が取りやめられ、替わってテアトロ・レアルのデザインと同質の建設計画で施工された。1850年までテアトロ・レアルは完成しなかったけれども、王宮を見下ろす西側ファサードは広場の外観とともにあった。 1842年、カーブのある長方形の広場となる可能性を考慮し、左右対称となる6区画が考案された。しかし区画は片側2区画に減らされた。1851年、ナルシソ・パスクアルの設計に従った建設計画で住宅建設が始まった。 広場の庭園は時間の経過とともに驚くべき変化を遂げた。1941年まで、広場の中心にあるフェリペ4世騎馬像の周りを庭園が占めたが、円周の端に移動させられた。西ゴート王国やスペイン各王家の王の彫像は44体が設置されていたが、1927年に20体に減らされた。 現在の庭園設計は1941年以来のものである。20体の彫像群は、中央の騎馬像をはさんで両側に10体ずつ並べられている。 ホセ・マリア・アルバレス市長時代の1990年代半ば、広場が再び刷新された。広場と王宮の間にバイレン通りがつくられ、王宮から広場が切り離された。テアトロ・レアルから伸びる舗道が整備された。広場の下に地下ショッピング・モールと地下駐車場をつくるという案は最終的に却下された。工事でいくつかの考古学発見(16世紀にハプスブルク家が使用したテソロ邸跡、11世紀のムーア人が建てた監視塔跡など)がなされ議論がさかんとなったが、その多くは壊され、1996年に工事は完了した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「オリエンテ広場」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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