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オリバー・クリスチャン・ボスビーシェル(、1839年1月3日 - 1921年8月1日)は、1889年から1894年までアメリカ合衆国造幣局フィラデルフィアの監督官を務めた。南北戦争では、敵の行動によって最初に負傷した北軍兵だと主張してもいた。その部隊が1861年4月にボルチモア市を行軍中に、南軍同調者が投げた物体によって額に痣を作った。 ボスビーシェルはミシシッピ州で生まれた。その両親はフィラデルフィアの出身であり、ボスビーシェルはペンシルベニア州スクーカル郡で育った。鉄道で短期間働き、法律を勉強した後で、南北戦争が勃発したときに北軍に入隊した。ペンシルベニア第25志願兵連隊で短期間任務に就いた後、ペンシルベニア第48志願兵連隊に移り、以後3年間その隊で務めた。第二次ブルランの戦い、サウス山の戦い、アンティータムの戦いなどに参戦した。少佐に昇進してその連隊を率いたが、1864年10月に徴兵期間満了となり、休暇は拒否されたので除隊になった。 その後ボスビーシェルはペンシルベニア州に戻り、2つの事業に就いたが成功しなかった。共和党の政治にも関わり、退役兵の団体であるグランドアーミー・オブ・レパブリックの活動に参加した。1869年にフィラデルフィア造幣所の地位に指名され、1876年には貨幣鋳造主任、1889年には監督官に指名され4年間務めた。ボスビーシェルの造幣所の部下の一人が金の延べ棒を盗み、容疑者が逮捕されたときに全てが回収できなかったので、ボスビーシェルはその損失の責任を取らされた。1899年には議会の法によってその法的責任を回避された。その後は保険会社の役員となり、1921年に死んだ。 == 初期の経歴と南北戦争 == オリバー・クリスチャン・ボスビーシェルは1839年1月3日に、ミシシッピ州ヴィックスバーグで生まれた。父は同名のオリバー・クリスチャン・ボスビーシェル、母はメアリー・アン(旧姓ホィットニー)だった。両親共にフィラデルフィアの旧家の出身であり、ヴィックスバーグには一時的に住んでいただけだった。父は問屋業に従事していた。その倉庫を破壊した火事のときに消火に当たっていて気管支炎を患い、その健康を快復することを期待して船旅を行ってフィラデルフィアに戻った後に死んだ。その8週間後に息子が生まれ、母のメアリー・アンは新生児を連れて、ミシシッピ州からペンシルベニア州スクーカル郡にあった母の父の家に戻った。ボスビーシェルはそこで成長し、地元の公立学校に通った。15歳の時に学校を卒業し、電報配達員となり、さらにその後の3年間はその分野の様々な職に就いていたが、その後法律分野の職を求めることを決心した。まず弁護士のフランシス・W・ハグビーについて法律を勉強し、その後叔父のウィリアム・ホィットニーに付いた。両人ともポッツビル市に住んでいた。1861年、南北戦争が勃発した時、ボスビーシェルはまだ勉学中だった。 1861年4月15日、エイブラハム・リンカーン大統領が、アメリカ合衆国を守るために戦う志願兵5万人の招集を呼びかけた。翌日、ボスビーシェルは地元の民兵隊であるワシントン砲兵隊に入隊し、直ぐにワシントンに向かった。その途中の4月17日、ボルチモアの通りを行軍する必要があった。南軍同調者の敵対的な群衆が集まっており、ボスビーシェルがその後一生語っていたことに拠れば、石ともレンガとも様々に表現した飛び道具を当てられた。それは大きな痣を作り、一時的に失神していたが、出血は無かった。ボスビーシェル兵士は北軍側で最初に負傷した者とされ、その数分後に飛び道具で肌を破られたアフリカ系アメリカ人従僕が、北軍のために初めて血を流したものと見られた。しかし、ボルチモア暴動の公式記録ではボスビーシェルが負傷者に入っていない。 ワシントンでは、部隊がアメリカ合衆国議会議事堂の上院会議場側のレディース・ギャラリーを宿舎にした。4月18日にワシントンに最初に着いた350人のペンシルベニア州兵士は「第一守備隊」と呼ばれ、戦後その生存者がその名前で同好会を結成した。彼らが議事堂に泊まっている間に、リンカーン大統領、国務長官のウィリアム・スワード、陸軍長官のサイモン・キャメロンが訪問してきた。ボスビーシェルはリンカーンのことを回想して、「そう、ここの部屋の中にいる全ての者の上に聳えているのは、戦争の偉大な中心人物だった。私はその顔の親切そうな様子、その腕と脚がぎこちなくぶら下がっていること、共和国最初の兵士達を前に明らかに恥ずかしがっていること、彼の態度に重大でむしろ陰気なものがあることに印象を受けた」と記していた。 ワシントン砲兵隊はペンシルベニア第25志願兵連隊H中隊に再編され、ポトマック川を下ってワシントン砦に送られ、そこの防御度を上げるために3か月を費やした。ボスビーシェルは正規軍の中尉任官を提案されたが、志願兵任務を好むと言って辞退した。この中隊の徴兵期限が明けたとき、ボスビーシェルはペンシルベニア第48志願兵連隊G中隊少尉として北軍に再入隊し、1861年10月1日からまる3年間務めた。 ボスビーシェルは再入隊後約1か月、ハリスバーグで連隊付き徴兵担当士官だったが、11月1日、連隊と共にバージニア州モンロー砦から、ノースカロライナ州ハッテラスに船で移動した。そこでボスビーシェルは連隊の副官代行として、また軍法会議では法務官を務めた。アンブローズ・バーンサイド将軍がニューバーンを攻撃したとき、バーンサイドは第48連隊の6個中隊を率い、ボスビーシェルも連れて行った。ただし、G中隊は北軍に入っていなかった。1862年4月と5月、ボスビーシェルは連続して中尉と大尉に昇進し、中隊長となった。その後は中隊を率いて第二次ブルランの戦い、アンティータムの戦い、フレデリックスバーグの戦いに参戦した。フレデリックスバーグの後で、再度軍法会議の法務官になった。1863年初期に連隊が西部に移動すると、ボスビーシェルはケンタッキー州ルイビルの憲兵司令官になった。ルイビルに駐屯する間に休暇を得てペンシルベニアの家に戻り、牧師の娘マーサ・ステムと結婚した。 1863年9月、連隊がテネシー州での北軍の行動に加わるために移動を命じられると、ボスビーシェルは第48連隊が入っている第9軍団第1旅団の副参謀補代行となった。そこでブルースプリングスの戦いやキャンベルズ・ステーションの戦いで戦い、ノックスビル包囲戦に参加した。1864年、連隊の補充を行うために再びペンシルベニアに戻った。旅団の役職に戻ると、オーバーランド方面作戦ではアフリカ系アメリカ人の部隊を指揮した。 1864年7月10日、ボスビーシェルは少佐に昇進し、第48連隊長就任を命ぜられたが、一時的に旅団の役職に留まっていた。このとき北軍は、南軍の首都リッチモンドの南にあるピータースバーグを包囲していた。第48連隊の指揮官代行だったヘンリー・プレザンツは、文民の時には鉱山技師であり、南軍の前線の下にトンネルを掘って大きな爆弾を爆発させる作戦を立てた。数週間にわたる準備を行った後、その爆弾は7月30日に爆破され、南軍の前線に大きな穴を明けた。南軍は最初の衝撃が収まった後で、兵士を再集合させ、北軍のへまにも助けられて、前線を破る動きを撃退した。クレーターの戦いと呼ばれたこの戦闘で、ボスビーシェルはアフリカ系アメリカ人部隊を指揮しており、400名以上の被害を出した。プレザンツはがロバート・B・ポッター将軍の参謀に昇進したので、ボスビーシェルが1864年8月2日に第48連隊長になった。 ボスビーシェルはその部隊を率いてグローブ・タバーンの戦いとピーブル農園の戦いに参戦した。1864年9月、個人的な用件でペンシルベニアに戻るために休暇を取ろうとした。これが拒否され、ボスビーシェルの3年間の徴兵期限が切れていたために、1864年10月1日付で除隊となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「オリバー・ボスビーシェル」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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