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オリヴィア・デ・ハヴィランド(、1916年7月1日 - )は、アメリカ合衆国の女優。女優としてのキャリア初期には清純な娘役を演じることが多かったが、キャリア後期には存在感のある重厚な役柄を演じている〔"Olivia de Havilland". ''Encyclopedia Britannica'' retrieved 15 February 2013.〕。デ・ハヴィランドはイギリス人の両親の間に日本で生まれた。妹のジョーン・フォンテインも日本の生まれで、デ・ハヴィランドと同じく女優の道に進んでいる。1919年に一家は日本を離れて故国イギリスへと向かったが、旅の途中で姉妹が病にかかったため滞在中のカリフォルニアに、母子だけがそのまま移住した。 デ・ハヴィランドが出演した映画のなかでもっとも有名な作品として『風と共に去りぬ』(1939年)が挙げられる。映画作品ではエロール・フリンの相手役を演じることが多く、『ロビンフッドの冒険』(1938年)、『無法者の群 (en:Dodge City)』(1939年)、『カンサス騎兵隊 (en:Santa Fe Trail)』(1940年)、『壮烈第七騎兵隊』(1941年)など、8作品で共演している。 デ・ハヴィランドは『遥かなる我が子』(1946年)と『女相続人』(1949年)で、アカデミー主演女優賞を2度受賞している。妹のジョーン・フォンテインも『断崖』(1941年)でアカデミー主演女優賞を受賞しており、2013年現在時点でアカデミー主演賞を獲得した唯一の兄弟姉妹となっている。アカデミー賞のほかにデ・ハヴィランドは『蛇の穴』(1948年)でナショナル・ボード・オブ・レビュー主演女優賞、ニューヨーク映画批評家協会賞主演女優賞、ナストロ・ダルジェント賞最優秀外国女優賞、ヴェネツィア国際映画祭女優賞を受賞している。また、ゴールデングローブ賞では『女相続人』(1949年)で主演女優賞(ドラマ部門)を、『アナスタシア/光・ゆらめいて』(1986年)で助演女優賞(ミニシリーズ・テレビ映画部門)をそれぞれ受賞している。1960年には、それまでの映画界への貢献が讃えられてハリウッド・ウォーク・オブ・フェームにプレートが設置された。2008年には当時のアメリカ合衆国大統領ジョージ・W・ブッシュから、芸術分野の顕彰としてはアメリカ最高位の国家芸術メダル (:en:National Medal of Arts) が贈られている〔。 == 前半生 == オリヴィア・デ・ハヴィランドは1916年7月1日に日本の東京(現在の東京都港区)で、イギリス人の両親の間に生まれた。父親のウォルター・オーガスタス・デ・ハヴィランド(1872年8月31日 - 1968年5月23日)はケンブリッジ大学出身で、東京帝国大学の英語教授として日本に招かれていた。後にウォルターは、日本での経験を活かして特許弁護士となっている〔Thomas 1983, p. 20.〕。母親のリリアン・オーガスタ(1886年6月11日 - 1975年2月20日)は〔"Olivia Mary de Havilland at ''ThePeerage.com'' ; retrieved 15 February 2013.〕〔Olivia de Havilland profile at FilmReference.com ; retrieved 15 February 2013.〕、ロンドンの王立演劇学校出身で、夫ウォルターと来日する前には舞台女優をしていた〔。リリアンは、娘たちが1940年代に女優として成功を収めた後に「リリアン・フォンテイン」という芸名で、再び舞台女優に復帰している。オリヴィアの父方の従兄ジェフリー・デ・ハヴィランド (:en:Geoffrey de Havilland) は、イギリス空軍の爆撃機デ・ハヴィランド・モスキートの設計を担当したことで有名で〔、後に航空機メーカーであるデ・ハヴィランド・エアクラフトの創始者となった人物である。また、オリヴィアの父方の祖母はチャンネル諸島のガーンジー出身だった〔Beeman 1994, p. 24.〕〔Thomson 2010, p. 339.〕。 オリヴィアの両親は1914年に結婚したが、ウォルターが浮気がちな男性だったために、二人の結婚生活は必ずしも幸福とはいえなかった〔Thomas 1983, p. 22.〕。オリヴィアの妹で、後に女優ジョーン・フォンテインとなるジョーン・デ・ハヴィランドが生まれたのは1917年10月22日だった。1919年2月に、母リリアンは病弱だった娘たちには東京の気候があっていないのではないかと考え、ウォルターを説得して一家はイギリスへと戻ることを決めた〔。イギリスへ戻る途中にオリヴィアが気管支炎となり、高熱で倒れたために一家はカリフォルニアにしばらく滞在している。その後ジョーンも肺炎に罹患したために、リリアンは二人の娘とカリフォルニアに残る決断をし、サンフランシスコから50マイルほど離れたサラトガに移り住んだ。しかしながら父ウォルターは家族を見捨てて、後に結婚することとなる日本人家政婦とともに日本へ戻っていった〔。オリヴィアの両親はその後別居生活となったが、二人が正式に離婚したのは1925年2月になってからだった〔Thomas 1983, p. 23.〕。 母リリアンは女優をやめてかなりの年月が経っていたために専門的な知識も忘れかけていたが、娘たちにシェークスピアを読み聞かせて芸術に対する知識を教え込み、ほかに音楽や弁論術なども娘たちに学ばせた〔Thomas 1983, p. 24.〕。1925年4月にウォルターとの間に正式に離婚が成立すると、リリアンは百貨店の経営者ジョージ・M・フォンテインと再婚した。ジョージは厳格な人物で、義娘となったオリヴィアとジョーンを厳しくしつけようとしたためにオリヴィアとジョーンはジョージに敵意を抱くようになった。また年子だったオリヴィアとジョーンも仲が悪くなり、この二人の不仲は生涯続いている〔Cornwell, Rupert. "Sibling rivalry: Hollywood's oldest feud." ''The Independent'', 15 May 2008. Retrieved: 6 March 2013.〕。 デ・ハヴィランドはベルモントのノートルダム高校 (:en:Notre Dame High School) とロス・ガトス高校 (:en:Los Gatos High School) で学んだ〔Thomas 1983, p. 25.〕〔"Biography." ''Olivia de Havilland''. Retrieved: 6 March 2013.〕。高校生時代のデ・ハヴィランドは口が達者なフィールド・ホッケーが得意な少女で、高校では演劇部に所属していた〔Thomas 1983, p. 26.〕。1933年にデ・ハヴィランドは、ルイス・キャロルの小説を原作とした、地域素人劇団の公演『不思議の国のアリス』の主役アリスで初舞台を踏んだ〔。後にデ・ハヴィランドはこの舞台のことを次のように振り返っている。 1934年に高校を卒業したデ・ハヴィランドは、サラトガ・コミュニティ劇場で上演されるシェークスピア原作の戯曲『真夏の夜の夢』の妖精パック役の出演依頼を受けた〔。この年の夏、オーストリア人演出家マックス・ラインハルトがハリウッド・ボウルで『真夏の夜の夢』を上演するためにカリフォルニアを訪れていた。ラインハルトの助手が偶然にデ・ハヴィランドの演技を観て興味を抱き、そのことを聞いたラインハルトが自身が監督する『真夏の夜の夢』の主役ハーミアの代役にデ・ハヴィランドを指名した〔Thomas 1983, p. 27.〕。そしてラインハルトの『真夏の夜の夢』が開幕する一週間前に、ハーミア役の女優が映画の撮影のためにカリフォルニアを離れてしまったために、代役のデ・ハヴィランドがハーミアを演じることとなった。初日の公演でデ・ハヴィランドの演技は好評を博し、その後の4週間にわたる巡業公演でデ・ハヴィランドはハーミアを演じ続けた〔。この巡業中にラインハルトは映画会社ワーナー・ブラザーズから、ラインハルトの舞台版『真夏の夜の夢』の映画化が決またっという知らせを受け、ラインハルト自身が映画監督を担当することとなった。そしてラインハルトはデ・ハヴィランドに、舞台版と同様にこの映画でもハーミア役での出演依頼を申し出た。当時のデ・ハヴィランドは英語教師になるつもりで〔、秋には奨学金を得てミルズ大学に入学することが決まっていたが、ラインハルトがデ・ハヴィランドを説き伏せて映画出演を承諾させている。そして18歳のデ・ハヴィランドは、ワーナー・ブラザーズとの8年間の出演契約書にサインした〔Thomas 1983, p. 28.〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「オリヴィア・デ・ハヴィランド」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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