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オルダー ( リダイレクト:オルダ ) : ウィキペディア日本語版
オルダ[ちょうおん]
オルダ(Ūrda/Hurdū、? - ?)は、ジョチ・ウルスの王族。チンギス・ハーンの長男ジョチの長男。ジョチの正室でコンギラト部族出身のサルタクを母に持つ〔志茂碩敏『モンゴル帝国史研究正篇』(東京大学出版会, 2013年6月)、744頁〕。
父のジョチの死後、弟のバトゥと父の直属の軍隊を二分し、ジョチ・ウルスの左翼(オルダ・ウルス)を形成した〔赤坂『ジュチ裔諸政権史の研究』、128頁〕。
== 生涯 ==
ジョチが没した後、オルダはジョチの本拠地であるイルティシュ川上流域を相続した〔クシャルトゥルヌ、スミルノフ「カザフスタン中世史より」『アイハヌム2003』、62頁〕。オルダはバトゥをジョチ家の当主に推戴するクリルタイを主宰し、以後も多くの場面でバトゥを支援する〔赤坂『ジュチ裔諸政権史の研究』、144頁〕。17世紀の歴史家でヒヴァ・ハン国のハンでもあるアブル=ガーズィーはチンギス・ハーンの命令によってバトゥが後継者とされたと述べ、16世紀ホラズム地方で成立した史書『チンギス・ナーメ』にはチンギスがオルダとバトゥの争いを仲裁し、バトゥをジョチの後継者に指名したことが記されている〔クシャルトゥルヌ、スミルノフ「カザフスタン中世史より」『アイハヌム2003』、58-59頁〕。
1235年のクリルタイで決定されたルーシへの遠征には、他の兄弟とともに参加している〔ドーソン『モンゴル帝国史』2巻、150頁〕。グユクの即位が決定されたクリルタイには欠席したバトゥの代理としてオルダが参加し、チャガタイ・ウルスの当主を務めるイェス・モンケとともに王座に就くグユクの手を取った〔。グユクが大ハーンの地位に就いた直後、大ハーンの地位をうかがったテムゲ・オッチギンの取り調べをモンケとともに行った〔ドーソン『モンゴル帝国史』2巻、218,228頁〕。1250年代半ばにオルダは次男のクリをフレグの西征に派遣し、その後史料に彼の動向は確認されない〔赤坂『ジュチ裔諸政権史の研究』、145頁〕。
オルダの死後、四男のコングランがオルダ・ウルスの統治者となった。オルダはジョチの存命中から敬意を払われ、ジョチが没してバトゥがジョチ一門の当主となった後もそれは変わらなかった〔クシャルトゥルヌ、スミルノフ「カザフスタン中世史より」『アイハヌム2003』、61頁〕。オルダ・ウルスは名目上はバトゥの一族が当主を務めるジョチ宗家に従属していたが実質的には独立状態にあり、宗家の方針と異なる行動をとることもあった〔赤坂『ジュチ裔諸政権史の研究』、136-137頁〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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