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オルドス(、、中国語:鄂爾多斯 Èěrduōsī、英語:Ordos)は、近世以降にあらわれるモンゴル遊牧民の部族集団。この集団が明代以降、中国の黄河屈曲部(「河套」)に居住したことからこの地域は現在オルドス高原と呼ばれ、内モンゴル自治区のオルドス市が置かれている。 == 歴史 == オルドスは、15世紀頃、モンゴル高原で活動するモンゴル部族連合のトゥメン(部族(オトク)が集まって形成された部族の集合体)のひとつとして歴史に登場する。 オルドスの名は、モンゴル語・テュルク語で「宮廷」を意味する「オルド」を語源としており、この集団はモンゴル帝国の始祖チンギス・ハーンの生前の宮廷をチンギスの霊廟として奉祀していた。集団の長はジノンと称したが、これは元の時代にモンゴル高原に駐留し、チンギス・ハーンの霊廟を守護した王族の称号「晋王」がモンゴル語に取り入れられたものである。したがって、オルドス部は元の晋王領を起源とする集団であると考えられている〔岡田2010,305-306頁〕。 元の時代、チンギス・ハーンの霊廟はモンゴル高原北東部のケルレン川流域にあり、オルドス部の先祖たちもこの地域で遊牧していたが、15世紀頃、オルドス部は霊廟とともに南下して、漢民族が古来「河套」と呼んできた黄河の屈曲部に入り、のちにオルドス高原と呼ばれる高原に移住した。 15世紀の末頃、オルドス部を含むモンゴルの西部はオイラトの影響下にあり、東部のチャハル部を支配するモンゴルのハーンの権威は及ばなかった。16世紀初頭頃、モンゴルのダヤン・ハーンはオルドスに次男のウルス・ボラトを婿入りさせ、ジノンとして送り込んだが、ウルス・ボラトはヨンシエブのイブラヒム・タイシによって殺害された。 イブラヒムが1510年にダヤン・ハーンによって滅ぼされ、モンゴルが再統一されると、オルドスは同じく西部のトゥメンであるトメトに婿入りしていた三男のバルス・ボラトの支配下に入った。オルドスのバルス・ボラトは父ダヤン・ハーンの死後、チャハル部と大ハーンの位を継承した甥のボディ・アラクを差し置いて一時はハーンを自称するほどの勢力を誇ったが、その死後長男のグンビリクがオルドス、次男のアルタンがトメトを継ぎ、オルドスとトメトは再分割された。1542年、オルドスのグンビリクが死ぬと、トメトのアルタンの勢力がオルドスを凌ぐようになり、アルタンはチャハルの大ハーンからハーンの称号を許されるに至った。オルドスのジノン家はこれ以降もっぱらトメトのハーン家と行動をともにし、オイラトと戦って青海を占領し、ジュンガリアやチベットまで侵攻するなど、西方に勢力を拡張した〔岡田2010,77-78頁〕。 1572年にはトメトと同じく明に入貢した。その後、1628年にチャハルのリンダン・ハーンがトメト・ハーン家を滅ぼすとチャハルに服属し、1635年にチャハル討伐のためオルドス地方に進軍してきた後金(のちの清)に降った〔岡田2010,83-84頁〕。 清朝の統治下では盟旗制のもと、オルドスには7つの旗が置かれ、バルス・ボラトの後裔である7家が旗長を世襲した。また、オルドスの7旗のみで1つの盟(伊克昭イェケ・ジョー(イフ・ズー)盟)が置かれた。 イェケ・ジョー盟は2002年に盟から地級市に変更され、オルドス市となって現在に至っている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「オルドス」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Ordos Mongols 」があります。 スポンサード リンク
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