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オルヤ作戦 : ミニ英和和英辞書
オルヤ作戦[いくさ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [さく]
  1. (n,n-suf) a work 2. a harvest 
作戦 : [さくせん]
 【名詞】 1. military or naval operations 2. tactics 3. strategy 
: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 

オルヤ作戦 ( リダイレクト:嵐作戦 ) : ウィキペディア日本語版
嵐作戦[あらしさくせん]

嵐作戦(あらしさくせん、クロアチア語ボスニア語セルビア語:)は、クロアチア共和国軍を主体とし、ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国軍の協力の下、クロアチア領内で事実上独立状態にあったクライナ・セルビア人共和国を奪還するための全面的軍事作戦のコードネームである。クライナ・セルビア人共和国は1991年以降、セルビア人の分離主義者によって事実上の独立国として統治され、クロアチアの支配権が及んでいなかった
作戦は36時間続き、第二次世界大戦後のヨーロッパでは最大の陸上進攻作戦と記された。作戦は、1995年8月4日の未明に始まり、4日後にはクロアチア軍による完全勝利に終わった。
クロアチア軍はアメリカ合衆国に拠点を置く民間軍事会社ミリタリー・プロフェッショナル・リソーシズMilitary Professional Resources Incorporated; MPRI)によって訓練を受けていた。この契約はアメリカ合衆国政府によって是認されていた。
当時のアメリカ合衆国大統領ビル・クリントンは回想録のなかで、地上での大規模な損失を与えることのみによってセルビア人を交渉の席に着けることが出来ると確信していたと述べている。後に交渉はデイトン合意としてまとまり、クロアチア紛争およびボスニア・ヘルツェゴビナ紛争を終結させた。
当時のアメリカ合衆国の和平交渉者リチャード・ホルブルックRichard Holbrooke)は、「クロアチアのクライナに対する攻勢によっていかに劇的にバルカンの戦況を変化させ、それによって外交攻勢も変化したかを思い知った」と話した。退役した将軍でアメリカ統合参謀本部戦略計画・政策部の長官、後のNATO欧州連合軍最高司令部のは、簡潔に「転換点」であったと述べている。
スレブレニツァの虐殺後、ボスニア・ヘルツェゴビナビハチでも同様の大量虐殺の発生が懸念されていた。ビハチは、スレブレニツァの4倍の規模があり、、クロアチア領のクライナ・セルビア人共和国やボスニア・ヘルツェゴビナ領のスルプスカ共和国といったセルビア人勢力に包囲され、攻撃を受けていた。
およそ15万人から20万人の〔>〕セルビア人が、迫り来るクロアチア軍から逃れ、ボスニア・ヘルツェゴビナのセルビア人勢力支配地域や、さらに東にあるセルビアまで脱出した。欧州連合の旧ユーゴスラビア担当特使カール・ビルトは、1995年8月7日、「これまでバルカン見た中で最も効果を発揮した民族浄化」と呼んだ。これに対してクロアチア共和国の外相は、ビルトによる評価は「根拠がない」と答えた〔" DISPUTE WITH EU NEGOTIATOR;
Bildt has lost credibility as peace mediator - Foreign Ministry" BBC Summary of World Broadcasts August 7, 1995〕。ドイツの外相クラウス・キンケル(Klaus Kinkel)は、「遺憾」を表明する声明を発したが、同時に「セルビア人勢力による攻撃の年月を忘れてはならない。それはクロアチアの忍耐力に対する過酷な挑戦であった。」と付け加えた〔Fedarko, Kevin, et all. "The Guns of August." Time Magazine August 14, 1995: 44.URL = http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,983292,00.html May 18, 2008 〕。アメリカ合衆国政府は自制を呼びかけたものの、軍事行動が「クライナ・セルビア人勢力によるムスリム人の飛び地ビハチへの攻撃によって引き起こされたもの」であったとした〔ibid: ibid〕。軍事攻勢はボスニア・ヘルツェゴビナ領内に入ってからはミストラル作戦として続けられた。
クロアチア人の3人の将軍、アンテ・ゴトヴィナイヴァン・チェルマクIvan Čermak)、ムラデン・マルカチュMladen Markač)は嵐作戦の計画と実施に関与したとして、旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷(ICTY)によって訴追を受け、オランダデン・ハーグにて裁判が進められている。3人に対する嫌疑は、実力をもってクライナ地域に住むセルビア人住民を不可逆的に排除することを目的とした共同犯罪活動、および人道に対する罪である。
クロアチア政府は、主権国家が自国の領土の支配権を守る権利に基づき、作戦を正当化している。クロアチア政府はまた、「戦争犯罪」に加担していないクロアチア領のセルビア人は、クロアチア領に帰還できると強調している〔Tanner, Marcus, "Croatia: A Nation Forged In War," New Haven: Yale Nota Bene; p.298〕。
クロアチアでは、8月5日は「勝利と祖国への感謝の日」として国民の祝日となっている。
== 背景 ==

1990年丸太革命は、クロアチア領でセルビア人が多く住むクライナ地方、およびクロアチア人が比較多数でしかないクロアチア東部に集中した。
セルビア人勢力は、クロアチアから独立した「クライナ・セルビア人共和国」の樹立を宣言したが、これは国際的な承認を得ることはなかった。ユーゴスラビア人民軍の支援を受けたクライナ・セルビア人共和国と、クロアチア政府・市民との間で戦闘が始まった。セルビア人勢力の支配下となった地域では、彼らによってクロアチア人市民に対する民族浄化がはじめられ、1993年初頭までにほぼ全ての非セルビア人市民はこの領域から排除された。クライナは国際連合の監視下となり、1993年11月の時点で、国連保護区(UMPA)南地区ではクロアチア人は300人、国連保護区北地区では1,500人から2,000人程度となっていた。
1992年1月、クロアチア大統領のフラニョ・トゥジマンと、セルビア大統領のスロボダン・ミロシェヴィッチとの間で停戦が合意され、両勢力間の戦闘は停止された。その後3年間に渡って、クロアチア軍はクライナに対する攻撃は限定的なものに留まった一方、セルビア人勢力からは周囲のクロアチア人の町を包囲するなどの攻撃が加えられた。セルビア人勢力による攻撃としては、1995年5月のザグレブ・ロケット攻撃Zagreb rocket attack)などが知られている。この間のクロアチア軍による大規模な攻撃としては1993年9月のメダク・ポケット作戦が知られ、クロアチア軍がリカ地域の山間部を制圧したが、このときセルビア人住民に対してクロアチア軍が戦争犯罪を行ったとする嫌疑を生んだ。
クロアチア陸軍(HV)は、ボスニア・ヘルツェゴビナでの戦闘により重点を置いた。ボスニア・ヘルツェゴビナではクロアチア人の武装勢力・クロアチア防衛評議会(HVO)と協力していた。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争へのクロアチア軍の介入によって、ボスニア領内で独立勢力を築き上げていたクロアチア人勢力を助け、またクロアチア軍に対して価値のある戦闘経験をもたらした。また、この介入によって、クライナ・セルビア人勢力へのボスニア領内での補給路を脅かす戦略的な重要地域を確保した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「嵐作戦」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Operation Storm 」があります。




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