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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
オレグ・ウラジミロヴィチ・ペンコスキー (、1919年4月23日 - 1963年5月16日) はソ連軍参謀本部情報総局 (GRU) の職員。イギリスとアメリカ合衆国へ情報を流すスパイとなりキューバ危機において重要な役割を果たしたが露見し処刑された。 ==生涯== ペンコフスキーの父はロシア内戦中に白軍側につき戦死した。ペンコフスキーはキエフの砲兵学校を1939年に卒業しフィンランドとの冬戦争および第二次世界大戦に従軍し中佐に昇進した。 GRUの職員としてペンコフスキーは1955年にトルコの首都アンカラへ赴任した。後には科学調査委員会でも働いている。ペンコフスキーはGRUの長官であったイワン・セーロフや陸軍の兵科総元帥セルゲイ・ヴァレンツォフと友人だった〔Oleg Gordievsky and Christopher Andrew (1990). KGB: The Inside Story. Hodder & Stoughton. ISBN 0-340-48561-2; cited from Russian edition of 1999, pages 476-479〕。 ペンコフスキーが祖国を裏切ろうとした理由は明らかではない。ペンコフスキーは1960年7月にモスクワのMoskvoretsky橋でアメリカ人の学生に小包を手渡した。CIAがこの小包を入手しペンコフスキーのことを知ったが、ペンコフスキーの信頼性を疑い、またソ連当局の監視を恐れてすぐには連絡しようとしなかった〔Schecter, Jerrold L.; Deriabin, Peter S. (1992), The Spy Who Saved the World: How a Soviet Colonel Changed the Course of the Cold War, Scribner, ISBN 0684190680〕。ペンコフスキーはイギリスの協力者グレビル・ウインを介して1961年にロンドンを訪れた際に二人のアメリカ人とイギリス人一人からなる情報機関員との会合を設定してもらった。ペンコフスキーの重要性はただちに認められ、ウインがクーリエとなった。ウインの自伝によると彼はペンコフスキーと連絡を務める任務のためだけに何年にも渡って注意深く準備されていた〔Wynne, Greville, The Man from Moscow. Hutchinson & Co., London, 1967〕。CIAはペンコフスキーの重要性を軽視していたことを認め、イギリス当局からペンコフスキーからの情報を共有を許された。この後18ヶ月に渡ってペンコフスキーは大量の情報を西側に提供した。最も重要だったのは、ソビエトの核兵器が西側が思っていたほど多くなかったこと、そしてミサイルの燃料システムや誘導システムにも問題があることだった。 1960年代初めにソビエト首脳はキューバへのミサイル配備を押し進めた。ペンコフスキーはキューバにおけるミサイル発射サイトの計画案を提供した。この情報に基づいてU-2 (航空機)がミサイルサイトを実際に撮影し確認した。GRU大佐で後に亡命したヴィクトル・スヴォーロフは、「歴史家はGRU大佐オレグ・ペンコフスキーの名前を感謝の念とともに心に留めることになるだろう。彼の計り知れない価値のある情報によってキューバ危機は最後の世界大戦に発展しなかったのだ」と述べている〔Suvorov, Viktor. Soviet Military Intelligence. Grafton Books, London, 1986, p. 155〕。 ペンコフスキーの裏切りはKGBのスパイジャック・ダンロップから得られた情報により暴露された。KGBは内部にスパイがいると気づき調査を開始した。ペンコフスキーは1962年10月22日に逮捕された。同じ日にアメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディはテレビ会見を行いU-2偵察機がキューバでミサイル基地を発見したと公表している。ペンコフスキーの自供によってグレビル・ワインもブダペストで逮捕されソ連に送還され後にアメリカで逮捕されたソ連のスパイと交換で帰国した。ペンコフスキーの逮捕によって、ニキータ・フルシチョフが当初から妥協を模索していたとの重要な情報がアメリカ側に伝わらなくなってしまった〔Aleksandr Fursenko and Timothy Naftali, "Khrushchev's Cold War", 2006. ISBN 978-0-393-05809-3〕。 ペンコフスキーは反逆罪とスパイの罪で1963年に裁判にかけられたとされている。ソビエトでの処刑に用いられる通常通りの方法で首の後ろを銃で撃たれたとする証言がある一方で、生きたまま火葬され灰はモスクワのドンスコイ墓地に埋葬されたとする者もいる。ヴィクトル・スヴォーロフは、ペンコフスキーであると特定はしていないものの、担架に縛り付けられたGRU大佐が生きたまま火葬されるフィルムをモスクワのGRU本部で見たと証言している〔Suvorov, Viktor. ''Aquarium'' (Grafton Books, London, 1987), p.11.〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「オレグ・ペンコフスキー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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