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オンタリオ湖での戦闘(オンタリオこでのせんとう、)では、米英戦争全期間を通してオンタリオ湖の支配を巡って続いた湖上戦を扱う。幾つかの湖上戦が行われ、そのどれもが決定的な結果にはならなかった。実質的に建艦競争となり、皮肉を交えて「船大工の戦闘」と呼ばれることもある。 == 1812年の動き == 米英戦争の宣戦布告が行われたとき、イギリスは五大湖でプロビンシャル・マリーンという海軍に近いものを所有しているという利点があった。その艦船は特に良い乗組員がいたり、効率的であったりするものではなかったが、当初エリー湖やヒューロン湖では対抗できる勢力が無く、アイザック・ブロック少将による初期の決定的な勝利を可能にした。 オンタリオ湖には、シップのHMS''ロイヤル・ジョージ''と''プリンス・リージェント''、ブリッグの''アール・オブ・モイラ''と''デューク・オブ・グロスター''がキングストン・イギリス海軍基地を拠点にしていた。スクーナーの''セネカ''と''シムコー''も就役していた。首席士官は75歳のジョン・スティール代将であり、年を取りすぎていた。スティールは退役し、ヒュー・アール海軍中佐に代わった〔Malcolmson, p.29〕。アメリカはメランクトン・テイラー・ウールジー大尉の指揮下にブリッグの''オナイダ''1隻を所有するだけであり、サケッツ港に小さな海軍基地があるだけだった。7月19日、プロビンシャル・マリーンの5隻が第一次サケッツ港の海戦で''オナイダ''を襲ったが、撃退された。 9月3日、アメリカ海軍は事態に対処するために、当時ニューヨーク海軍造船所を指揮していたアイザック・チョウンシー代将を五大湖の指揮官に指名した。チョウンシーは実質的にエリー湖の海軍も担当していたが、そこでの建艦や作戦にはほとんど関わらず、オンタリオ湖に集中していた。''オナイダ''を補うためにまず商船を購入するか徴発した(カナダのスクーナーを捕獲したものも含む)が、かなりの数の船大工、造船工などをサケッツ港に派遣して、適切な戦闘艦を造らせた。主任技師はアダム・ブラウン、その兄弟のノア・ブラウンとヘンリー・エックフォードだった。11月26日には最初のコルベット''マディソン''を進水させた。その建艦に使われた木材は、9月にはまだ自生していたものだった〔Forester, p.122〕。 チョウンシーは11月6日に''オナイダ''に艦隊旗を掲げ、その戦隊とともにイギリスの''ロイヤル・ジョージ''を追ってキングストンに向かった。このときは岸の砲台と砲艦から反撃され、さらにスクーナー''パート''の大砲が爆発してその指揮官に致命傷を負わせ、戦隊を混乱させたこともあって、撃退された。この戦闘後に冬が近付いたので、両軍の艦船は港から出られなくなった。チョウンシーは、イギリス軍正規兵部隊が氷を渡って攻撃してくることを怖れ、船大工達に艦船周りの氷を見張らせて、少なくともどのような攻撃に対しても発砲できるようにさせていた。しかし、イギリス軍はこの時点でそのような攻撃をするつもりは無かった。 イギリス軍は''マディソン''に対抗するために、キングストンで1隻、ヨークで1隻、合計2隻のコルベットを建造し始めた。しかしその動きは、特にヨークで遅れた。カナダの軍政府長官ジョージ・プレボスト中将が工事を監督させるために選んだ造船工トマス・プラックネットと、アッパー・カナダの陸軍参謀アンドリュー・グレイ大尉など士官達との間に論争があったからだった。プラックネットの作業はキングストンのものと同様に統制が取れていないと見なされ、プラックネットは解任され、より経験を積んだダニエル・アレンが後任になった〔Malcolmson, pp.69-70〕。しかしアレンも労働条件に関する論争を扇動した後で、1813年3月に解任された〔Malcolmson, pp.95-96〕。 ノバスコシアのハリファックスにあるイギリス海軍北アメリカ海軍基地から、ハーバート・ソーヤー海軍中将が3人の士官(指揮官代行のロバート・ヘリオット・バークレイ、ロバート・フェニス、ダニエル・プリング)をプロビンシャル・マリーンに派遣し、その冬の間、キングストンに既にある艦船の艤装を改善させた。しかし本国の海軍本部はこれとは別にジェイムズ・ルーカス・ヨー海軍大佐を五大湖の海軍指揮官に指名した。ヨーは本国で援軍や物資を集め、1813年初期に大西洋を渡った。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「オンタリオ湖での戦闘」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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