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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
オーガスタス・ケッペル (Augustus Keppel, 1st Viscount Keppel、1725年4月25日 - 1786年10月2日) はイギリスの提督、枢密院議員、初代ケッペル子爵。7年戦争やアメリカ独立戦争などに参加し、後者では海軍大臣もつとめていた。 ==生涯== ===前半生=== オーガスタス・ケッペルは1725年4月25日に生まれた。父親はウィリアム3世とともにイングランドへわたってきたオランダ貴族でホイッグ党員のウィレム・ヴァン・ケッペルで、オーガスタスは次男だった。彼は10歳で船に乗り、1740年のジョージ・アンソンの世界周航にセンチュリオンの乗組員として参加したときには既に5年の軍歴を経ていた。ケッペルは1741年11月13日のパイタでの捕獲からなんとか逃げ延び、翌年には海尉見習いとなった。またこの航海の間にケッペルはジョン・キャンベルと親交を深め、壊血病で歯を失いもした。この航海が完了した後ケッペルは中佐に任ぜられ、すぐに勅任艦長へと昇進した。彼は残りのオーストリア継承戦争期間を1748年に和平が結ばれるまで第一線ですごし、1747年には50門艦メイドストンをベライル付近で座礁させてしまう失敗も犯した。これはフランス艦を追跡している時に起きた事故で、ケッペルは軍法会議にかけられたが無罪となり別の任務が与えられた。 1749年前半にケッペルはエッジコム卿の紹介により画家のジョシュア・レノルズと知り合った。5月11日に代将に任ぜられたケッペルがバーバリ海賊対策のために地中海へ向けて出航した際、レノルズはメノルカ島までセンチュリオンに便乗しており、そこで初めてのケッペルの肖像画を描いた〔彼は年末までメノルカに滞在し、他の士官の肖像画も残している〕。アルジェに到着したケッペルが太守との交渉に向かうと、太守は「イギリス国王は髭も生えていない少年を派遣してきた」と不満を漏らした。これに対してケッペルは「髭を生やしていなければいけないのであれば、雄ヤギを連れて来ればいい」と切り返した。交渉は成功し、ケッペルは1751年に帰国した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「オーガスタス・ケッペル」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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