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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
オースティン・オスマン・スパー(一般にはスペアと表記、''Austin Osman Spare''、1886年12月30日 - 1956年3月15日)は、意識と無意識的自己の関係についての独自の理論に基づいた自動筆記、自動描画、シジル作成といった特異な魔術技法を開発したイングランドの画家である。彼の芸術的な作品は、線の描き方に熟練の技巧がうかがえる卓越した素描の腕前を特徴とし、奇怪とも幻想的ともいいうる魔術的にして性的な形象を多用している。 ==略伝== スパーは1886年12月30日、ロンドン市警察官を25年勤め上げたフィリップ・ニュートン・スパーとイライザ・アデレード・オスマンの息子として、ロンドンのスミスフィールド・マーケット近くのスノーヒルにて生まれた。5人兄弟姉妹の4番目であった〔スパーの生涯についての最も広範な情報源は Fulgur Limited から出版された ''Borough Satyr, The Life and Art of Austin Osman Spare'' である。特にロバート・アンセルの序文は他では得られない情報が多い。本項の記述は典拠としてこの本から多くを採っている。〕。 母親によればスパーは4歳にしてはじめてその才能の兆しを見せた。また、彼が自分の作品を売ることにあまり乗り気でなかったことはよく知られているが、この頃からすでにその徴候があった〔"Boy Artist At The R.A.", in ''The Daily Chronicle'', Tuesday, May 3rd 1904〕。 1899年、スパーの両親は彼をランベス美術学校の夜学に入れた。彼はそこでフィリップ・コナードの指導の下で技を磨いた。14歳のとき10ポンドの州議会奨学金を獲得し、線画1点がパリ万国博覧会の英国美術部門に入選した。15歳のとき学校を去り、働き始めた(短期間、ポスターなどの商業アートを製作する Causton's でポスターのデザインの仕事をし、ホワイトフライアーズ街の James Powell & Sons でステンドグラスのデザインの仕事をした)。あるステンドグラスのデザインから前途有望とされた彼は推薦により無償奨学金を得て王立美術学校に入学、そこで正規の美術教育を受けた。彼がデザインし仕事仲間のトーマス・カウエルが製作したステンドグラスは現在ヴィクトリア&アルバート美術館にある。その後ほどなくして父親の強い勧めで渋々ながら英国美術院に出展の検討材料として線画2点を送った。結果、1点の寓意画が認められた〔"Boy Artist At The R.A.", in ''The Daily Chronicle'', Tuesday, May 3rd 1904〕。英国美術院がわずか16、17歳の少年の作品を展示したということでちょっとした話題となった。この青年期においてすでにスパーは自分の秘教的思想を作り上げることに沈潜していた〔"Boy Artist At The R.A.", in ''The Daily Chronicle'', Tuesday, May 3rd 1904〕。 1907年10月、スパーはロンドンのウェストエンドにあるブルートン・ギャラリーにて初めて本格的な展示会を開いた。この展示内容はじつに印象的で、深遠かつグロテスクでもあり、賛否両論となった。これらの要素は前衛的なロンドンのインテリたちの目を引き、おそらくはそれによって、イギリスの悪名高い登山家にして魔術師であり詩人であったアレイスター・クロウリーに見出されるに至った〔Keith Richmond, "Discord In The Garden Of Janus - Aleister Crowley and Austin Osman Spare", in ''Austin Osman Spare: Artist - Occultist - Sensualist'', Beskin Press, 1999〕。彼らの出会いがどうであれ、二人はたしかに互いを知っていた。彼らの交流は1907年か1908年頃から始まったようで、スパーからクロウリーに向けられた1908年の日付入りの献呈辞が書き込まれた1907年版『半獣神たちの書』が、ある個人コレクションの中に存在すると言われている〔ウォーバーグ研究所蔵のジェラルド・ヨーク・コレクションにある「プロベイショナーの誓言」と題された文書は、スパーが1909年7月10日に誓言を行ったことを示している。〕。二人は文通するようにもなった〔スパーとクロウリーは文通を続けたらしいが、どこまでのものであったかは不確定である。少なくともスパーからクロウリーに宛てた二通の手紙がオースティンのテキサス大学のハリー・ランサム人文学研究所が所蔵するクロウリー文書コレクションの中に残っている。その中の一通はスパーがプロベイショナーのローブを購入する金が足りないことに関するものだった。リッチモンドの文献を参照。〕。スパーがアレイスター・クロウリーとジョージ・セシル・ジョーンズによって創設された "A∴A∴"(銀の星)のプロベイショナー〔仮参入者〕となったことはほぼ確実である。スパーはクロウリーの定期刊行物 ''The Equinox''(『春秋分点』)に小さな線画を4点寄稿しているし〔''The Equinox'', Vol. 1, No. 2, London, September 1909. スパーは土占術についての記事の挿絵に2点の線画を寄稿した。また同じ号の図33(The Garden of Eden)と図51(The Fall)の二図を書いている。〕、クロウリーが書物とローブと被り物とともに写っている1910年の有名な写真と同じように、両手をこめかみに当てたポーズを取った若きスパーの写真も残っている。 クロウリーとスパーの間柄がどのような性質のものであったにせよ、その関係は長くは続かなかったようで、スパーの『快楽の書』の一節から、彼がや魔術師らを好意的に見ていなかったことは疑いの余地がない。
1911年12月4日、スパーは女優でダンサーのアイリー・ガートルード・ショーと結婚した。二人は何年か前に出会っていた。スパーの作品に彼女が及ぼした影響がいかばかりであったにせよ、正式に離婚することはなかったものの結婚生活は長続きしなかった。二人は1918年か1919年頃に別れた。「画家とその妻の肖像、1912年3月26日 AOS」と署名・日付入りで記されたスパーの作品が知られている。色チョークと鉛筆で仕上げられたスパーの頭部がそこに見られる。ほんの数本のおぼろな描線で仕上げられた片方の側には、俯きかげんに頭を傾げ目を閉じた秀麗な女性の顔を見ることができる〔''Borough Satyr'', compiled and edited by Robert Ansell, Fulgur Limited, 2005, p6〕。 1913年秋、スパーは『快楽の書』を自費出版した。この本は彼の秘教的思想の全面的な開陳となった。 第一次世界大戦中の1917年、スパーは英国陸軍に徴用され、英軍医療部隊の衛生兵としてロンドンの病院で働き、1919年には公式の戦争画家に任命された。この資格をもって彼はフランスの戦場を訪れ英国軍医部隊の働きを記録した。 遅くとも1927年にはスパーは現代社会への嫌悪を露わにした態度を取るようになっていた。彼が戦争のおぞましさの情景を記録して過ごした年月、その後の経済的不安定の時期と事業の失敗、それに加えて彼の作品や思想がたびたび酷評されたこと、そうしたことどもが彼をかかる心境へと追い込んだのかもしれない。原因が何であれ、スパーの嫌悪は同年出版された『ゾスの詛〔のろ〕い-偽善者たちへの説教』にはっきりと表現されている。これが彼の最後の出版物となる。
イギリスのジャーナリスト、ハネン・スワッファーの伝えるところによると、1936年にスパーは国際的な名声を得る機会があったがこれを固辞した。一人のドイツ大使館員がスパーの自画像1点を購入してヒトラーに送ったと彼は言う。スワッファーによれば、総統はいたく感銘を受け(この記事によれば、目と口髭がヒトラーのものにどことなく似ていたためである)、自分の肖像を描かせるべくスパーを招待した。スパーは代わりにその複製を一枚作り、それはスワッファーの所有するところとなった。スワッファーの述べるに、スパーが「ヨーロッパを征服し人類を支配することを望んだ男へ送った」返答が肖像画の上部に記されていた。その返答は次のように読めるものであった。 「否定側の立場からのみ、あなたのことを考えるに心穏やかでいられるのです。あなたの野望と最終目標に我慢できるほど自分は忍耐強くないからです。あなたが超人だというのなら、わたしを永遠に動物のままでいさせて下さい。」〔Hannen Swaffer, "The Mystery of An Artist", in London Mystery Magazine, Vol. 1, No. 5, 1950 or 1951〕 このエピソードは、かつて流布し今も伝えられているスパーをめぐる数々の噺の中では、とびきり信じがたいものの内に入らない。スパーとその人生についてはいくつものの逸話が語られてきた。魔術的現象について述べたものや、占いもしくは予知の的中、魔法の具現化といったものが多い。こうした物語の真相についてはさまざまな見解があり得るが、いずれにせよそれらはスパー自らが主張したこととすっかり整合しているということは言っておかねばならない。 1941年、焼夷弾がスパーのアトリエ兼自宅フラットを全壊させ、彼から住処と健康と道具とを奪った。両腕が使えるようになるまでの3年間の苦闘の末、ようやく1946年にブリクストンの狭苦しい地下室ではぐれ猫たちに囲まれながら絵画製作を再開した。その時の彼はベッドもなく、古い軍用シャツとぼろぼろのジャケットを着て作業していた。それでもなお彼は一枚の絵につき平均5ポンドほどしか金を取らなかった。 1956年5月15日、ロンドンにて彼は死去した。69歳であった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「オースティン・オスマン・スパー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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