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オーストラリア料理(オーストラリアりょうり、)は、オーストラリアで食べられている料理の総称。この項目ではオーストラリアの食文化および料理について述べる。 == 歴史 == オーストラリア大陸の先住民であるアボリジニは狩猟採集生活を営み、手に入れた食料は保存することなくその場で食べていた〔『オーストラリア・ニュージーランド』、20頁〕。彼らの調理法は火にかけて焼く、焚き火の灰に埋める程度で調味料はほとんど用いられておらず、土器や食器を持たなかったためにスープや煮物の類は存在していなかった〔『オーストラリア・ニュージーランド』、20-21頁〕。食事は基本的に個人で摂り、集団の食事も家族の範囲に限定され、人が多く集まる場でも共食の機会はほとんどなかった〔『オーストラリア・ニュージーランド』、21頁〕。アボリジニ社会、および食文化は外部からの影響をほとんど受けない状態が50,000年近く続いていたが、18世紀末のイギリスからの移住者の到来によって大きな変化を迎える〔『オーストラリア・ニュージーランド』、180頁〕。 オーストラリアにおいて支配的な食の様式は、1788年にイギリス人が入植された後に形成されたものである〔『ケンブリッジ世界の食物史大百科事典』1、404頁〕。オーストラリアに移住した白人はマカダミアナッツや淡水魚のバラマンディを除いて、アボリジニの食物をほとんど取り入れなかった〔越智、村上「食事」『オセアニアを知る事典』新版、144-145頁〕。開拓の最初期にはカンガルーやエミューが食され、1859年に〔『オーストラリア・ニュージーランド』、69頁〕ウサギが輸入されるとそれを主食とした〔。その後、ヒツジやウシが食肉の中心となる。トウモロコシは最初期の開拓者が食べていた穀類であったが、やがて小麦が食べられるようになり、イースト菌を添加せずふくらし粉だけを混ぜたダンパーと呼ばれるパンが作られる〔。初期のオーストラリアには煉瓦のかまどすら普及しておらず、焚き火で煮炊きをする状況は19世紀末に工場で生産された安価なストーブの普及によって変化する〔。19世紀半ばから屋外で使用されるキャンプ・オーブン以外にコロニアル・オーブン、国産のストーブ、ガスレンジといった調理器具が使われ始めた〔『ケンブリッジ世界の食物史大百科事典』1、417-418頁〕。19世紀末には家畜の飼育、穀物、野菜、果物の栽培が、それぞれの作物に適した地域で行われるようになっていた〔『ケンブリッジ世界の食物史大百科事典』1、415頁〕。 第二次世界大戦期までオーストラリアではイギリス風の調理法が主だったが、入植者の多くが都市住民で小作農出身者が少なく、乏しい食材を上手に調理するイギリスの小作農独自の食文化が定着しなかった〔。オーストラリアの食事はありあわせの食材を使って細工らしい細工を加えない、いわゆる「ピクニック料理」で手早く簡単に調理する点に特徴がある〔『オーストラリア・ニュージーランド』、23頁〕。こうした料理が主だった理由に、最初のオーストラリアの移住者が軍人と囚人で構成されていたためだという説がある〔。入植初期の主要な労働力だった囚人はラム酒を好み、一時はラム酒が通貨の代替機能を持っていた〔堀『オーストラリアA to Z』、144-145頁〕。イギリスの食文化以外に移民の大きな割合を占めていたアイルランド出身者の食文化もオーストラリアに流入し、パン、ジャガイモ、肉、乳製品で済ませる質実な初期のオーストラリアの食事はアイルランド的だと言われている〔『オーストラリア・ニュージーランド』、43-44頁〕。当時の料理の単調さは一週間を牛肉とメリケン粉だけでやりくりするほどだったと言われている〔。20世紀に入るまで、地方の労働者は「テン・テン・ツー・アンド・クォーター(10ポンドの小麦粉、10ポンドの肉、2ポンドの砂糖、4分の1ポンドの紅茶と塩)」と呼ばれる配給食と大差ない単調な食事を取っていた〔『ケンブリッジ世界の食物史大百科事典』1、416頁〕。 イギリスの中流・上流階級の食文化は、役人や初期の入植者の後にオーストラリアに移住した富裕層によって持ち込まれる〔『ケンブリッジ世界の食物史大百科事典』1、414頁〕。上流階級は移住前と同じ食生活を維持し、一方で中流階級は一度の食事で多量の料理を摂取していた〔『ケンブリッジ世界の食物史大百科事典』1、417頁〕。シドニーなどの都市部では19世紀半ばにフランス料理店、19世紀末にイタリア料理店が進出する。しかし、こうした高級レストランの多くは、1893年からの不況の中で消えていった〔『オーストラリア・ニュージーランド』、27頁〕。高級レストランの流行と同時期に4ペニー・レストランや1シリング・レストランといった庶民的なレストランも現れ、ミートパイやフィッシュ・アンド・チップスなどが一般に普及していった〔『オーストラリア・ニュージーランド』、29頁〕。工場で生産された食品も出回り、わずかながら料理書も発行されたが、オーストラリアの食文化に大規模な変化は起こらなかった〔。19世紀半ばに起きたゴールドラッシュを目当てに多くの中国人労働者がオーストラリアに移住するが、彼らの食文化はなかなかオーストラリアに受け入れられず、徐々に白人社会に浸透していった〔『オーストラリア・ニュージーランド』、47-49頁〕。1920年代には科学技術の進歩によって食生活の地域差、階級差が狭められ、アメリカ合衆国の外食産業や食品会社の影響が強くなった〔『ケンブリッジ世界の食物史大百科事典』1、418頁〕。この時期に考案されたパン用スプレッドのベジマイトは、もっともオーストラリアらしい食べ物の一つと見なされている〔シャープ『オーストラリア人』、210頁〕。 第二次世界大戦後、南ヨーロッパ、東ヨーロッパ、中東、アジアから難民、移民が多く流入する。1960年代のカウンターカルチャーの正統・非正統の区別・差別を撤廃する潮流の中で、それらの地域のエスニック料理が旧来のオーストラリア人の間に浸透し、オーストラリアの食生活は多様化を迎える〔。1940年代後半から1960年代にかけて東・南ヨーロッパ、中東の移民が受け入れられ、オーストラリアの食の幅は広がりをみせ、洗練されていった〔『オーストラリア・ニュージーランド』、46-47頁〕。その例として、ポーランド系移民が普及させた本格的なソーセージとコーヒー、南ヨーロッパ系の移民が持ち込んだパスタとワイン、中東発祥のケバブやピタが挙げられる〔『オーストラリア・ニュージーランド』、47頁〕。1970年代からのアジア系移民の増加により、オーストラリアの食文化はヨーロッパ圏のコムギ・牧畜、パン・肉食の食文化を脱し、大きく変化する〔。伝統的なフィッシュ・アンド・チップスの店では、ギリシア料理のカラマリ(イカフライ)、春巻き、サモサなどのイギリス外の料理が提供され始めた〔シャープ『オーストラリア人』、202頁〕。多文化主義を背景として、1990年代から各国の料理の要素を取り入れたモダン・オーストラリアンと呼ばれる料理が現れ始めた〔シャープ『オーストラリア人』、198頁〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「オーストラリア料理」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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