|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana) ・ 帝 : [みかど] 【名詞】 1. (1) emperor (of Japan) 2. mikado 3. (2) (the gates of an) imperial residence ・ 帝国 : [ていこく] 【名詞】 1. empire 2. imperial ・ 国 : [くに] 【名詞】 1. country
オーストリア帝国(オーストリアていこく、)は、1804年の成立から1867年のオーストリア=ハンガリー帝国への改組まで、オーストリアのハプスブルク=ロートリンゲン家(以下、単に「ハプスブルク家」と呼ぶ)がオーストリア皇帝として支配した多民族国家。 前身の、神聖ローマ帝国及びその有力な構成国であったオーストリア大公国時代と、オーストリア帝国、オーストリア=ハンガリー帝国の時代とをあわせて、ハプスブルク君主国あるいはハプスブルク帝国と総称される。 == 概要 == 17世紀初頭から続いた三十年戦争を経て成立したヴェストファーレン体制を端緒とし、さらに18世紀のオーストリア継承戦争や七年戦争などによる、政体としての神聖ローマ帝国の形骸化は誰の目にも明らかであった。さらにフランス革命を受けたナポレオン帝国の出現で、中世以来の神聖ローマ帝国は名実ともに消滅した。ハプスブルク家は、事実上の国家を形成していた中東欧に広がるオーストリア大公国の支配領域(ハプスブルク君主国)をもってオーストリア帝国を形成、帝室の勢力圏を再編成した。1822年、君主国は帝国郵便のタクシス家にボヘミアの国家領ホティーシャウを108万9200グルデンで売却した。 この時期の前半はナポレオン戦争とその後のメッテルニヒ時代であり、後半は1848年「諸国民の春」によるウィーン体制崩壊後のフランツ・ヨーゼフ1世時代前半である。この時代はドイツ近代国家の模索期で、「オーストリア皇帝を戴く大ドイツ主義」か、「プロイセン王を戴く小ドイツ主義」かで揺れ動いていたが、広大な非ドイツ人地域の分離が前提となっている大ドイツ主義はオーストリアには迷惑千万であり、さりとて自らが統一ドイツから除外されてしまう小ドイツ主義も論外、非ドイツ人地域も包含した中欧帝国構想は時代遅れというジレンマ状態にあった。1866年の普墺戦争によりオーストリアは完敗して大ドイツ主義も中欧帝国構想も挫折、最終的にオーストリアは統一ドイツから除外される。また1848年革命に代表される非ドイツ民族の不満を収拾するため、ドイツ民族に次ぐ大勢力であったハンガリー系(マジャル人)に大幅な譲歩を認め(アウスグライヒ)、1867年にオーストリア=ハンガリー帝国(二重帝国)が発足した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「オーストリア帝国」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|