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オーセンティック・サイエンス・フィクション : ミニ英和和英辞書
オーセンティック・サイエンス・フィクション[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

オーセンティック・サイエンス・フィクション : ウィキペディア日本語版
オーセンティック・サイエンス・フィクション[ちょうおん]

オーセンティック・サイエンス・フィクション』(Authentic Science Fiction)はイギリスのSF雑誌である。1950年代に出版され、廃刊までに計85巻を数えた。編集長は初代がゴードン・ランズボーロウ、次代がH・J・キャンベル、最後を務めたのがE・C・タブであった。出版社はハミルトン社(Hamilton an Co.)。1951年1月に小説の叢書として隔週で刊行が始まり、その年の夏には読者の投書欄や社説も載った月刊誌になった(ただし当初のコンセプトを引き継ぎ、小説は長編しか掲載しなかった)。1952年からは短編も掲載されるようになり、その後2年も経つと完全にSF雑誌と呼べるものになった。
『オーセンティック』誌には重要な作品や革新的な作品はほとんど載らなかった(数少ない例外の一つがチャールズ・L・ハーネスの"The Rose"(薔薇)で、これは後年、高い評価を受けることとなった)。1000語が1ポンドという安い原稿料のため、一流作家が全く寄り付かなかったのである。その存続期間のほぼ全てを通じて、『オーセンティック』誌は国内の3誌のライヴァル誌と競合し続けた。ハミルトン社は1957年10月号(85号)をもって本誌を廃刊とした。その理由は、アメリカのベストセラー小説をイギリスで出版する権利を得るために現金が必要だったからである。
なお誌名の Authentic は「真正の」「本物の」「紛れもない」のような意味を持つ形容詞。
==出版史==
1950年、SF雑誌はアメリカではすでに20年以上も昔から刊行され成功していたが、イギリスにおいては低調であった。アメリカとは逆に、イギリスではSF小説の大部分が雑誌でなくペーパーバックの形態で出版されていたのである〔Ashley (''Transformations'', p. 82.) quotes the figures for 1952 as 95 sf books to 33 issues of sf magazines in the UK, whereas in the US that year there were 16 sf books and 152 sf magazine issues.〕。戦前にも戦後にも何誌かのSF雑誌が創刊されたが、いずれも短命に終わった。ジョン・スペンサー(John Spencer)は1950年に極めて低品質なジュブナイル雑誌4誌を市場に投入したが、50年代中期までしか保たなかった。一方、46年創刊の『ニュー・ワールズ』は生き残っていた〔Brian Stableford & Peter Nicholls, "New Worlds", in Nicholls & Clute, ''Encyclopedia of Science Fiction'', p. 867〕。アトラス社(Atlas)という出版社は、アメリカの一流誌『アスタウンディング』のリプリント発行を1939年から開始した。戦中には内容がかなり薄くなり、刊行も不定期となったが、毎月4万部が売れたと称されている。このことが、新しい市場を探していたハミルトン社の関心を惹いた〔Ashley, ''History of SF Magazine'' Vol. 3, pp. 68–71〕。
1949年、ハミルトン社はゴードン・ランズボーロウを編集長として雇用。ランズボーロウは自分の扱うSFの質を向上させるため全力を尽くしたが、彼は最上質の作品に対してすら1000語で1ポンドを支払う権限しか与えられていなかった。H・J・キャンベルがテクニカル・エディターとして編集部に加わった。彼はロンドンのSFファンで、かつてハルトン出版(Hulton Press)でSF雑誌の創刊計画(頓挫した)を担当した人物であった〔。
1951年の創刊まで、ハミルトン社のSF本は隔週で発行されていた。1951年1月1日、ハミルトン社はリチャード・コンロイことリー・スタントン作の"Mushroom Men from Mars"(火星から来たキノコ人間)を出版したが、この本の表紙には"Authentic Science Fiction Series"(オーセンティック・サイエンス・フィクション)と書かれたバナーが付けられたのである。同じものが1月15日の長編、ロバート・G・シャープことジョン・J・デーガンの"Reconnoitre Krellig II"(偵察機クレリグ2号)にも付いた。続く本、ロイ・シェルドンの"Gold Men of Aureus"(アウレウスの黄金人間)では、ランズボーロウは売れ行きの増加を目論んでバナーを"Science Fiction Fortnightly No. 3"(隔週サイエンス・フィクション 3号)に変えた〔Ashley, ''Transformations'', pp. 82–86〕。バナーが変わっただけでなく、投書コーナー、社説、そして予約購読を募る広告も加えられた〔現物を参照。〕。バナーは(ランズボーロウによると)単に刊行の日程を読者に示すためのものであったが、その他の変更と相まって、なおさら雑誌のような雰囲気を作り出した〔。編集長の名前が載せられたのもこの巻からで、ランズボーロウはこの仕事用にはL・G・ホームズという変名を使用した(ホームズは本名のミドルネームである)〔。
題名が売れ行きに大きな影響を与えたことは間違いない。ランズボーロウが後に述べたところでは、ハミルトン社の意向による別の題名(後述)では月1万5千部が売れたに過ぎないが、『オーセンティック』の題名では3万部が売れたのである〔。題名が確定すると、ハミルトン社は本誌を月刊にすることを提案した。ランズボーロウは仕事の増加に懸念を抱いていたし、ハミルトン社が原稿料の値上げに応じないことにも悩みの種であった。低賃金では低水準の作品しか集まらなかったのである。妥協の結果、『オーセンティック』はペーパーバックで月刊の発行、内容は長編一本と短い記事を基本とし、たまに短編も併録することになった。隔週の刊行は8号で終わりとなった。9から12号では表紙の下部に"Science Fiction Monthly"(SFマンスリー)という文字が入った。1951年の中頃、ランズボーロウはハミルトン社を辞職し、H・J・キャンベルが13号から新編集長となった。13号は題名が"Authentic Science Fiction"(オーセンティック・サイエンス・フィクション)と改まった最初の号でもあった〔〔。
キャンベルの下で『オーセンティック』はある程度の発展を遂げ、また、さらに一般的な雑誌らしい姿へと変態を続けた。ノンフィクションの読み物や、短編小説が毎号に載るようになったのである。ハミルトン社はSFのレーベル「パンター・ブックス」も発行しており、イギリスにおけるSF出版の主導権を握らんとしていた。1953年までにイギリスのSF市場は同時期のアメリカそっくりに変態を遂げた。悪貨が駆逐され、『オーセンティック』『ニュー・ワールズ』『サイエンス・ファンタジー』『ネビュラ・サイエンス・フィクション』という4誌の活発な雑誌だけが残った〔。
1955年末、キャンベルは化学者として研究生活に入るため、編集部を去った。その後任を務め、56年2月から廃刊まで編集を担当したのがE・C・タブである〔。彼は多数の変名を用いて大量の作品を本誌に寄稿していた人物であり(時には一冊の半分以上がタブの作品ということもあった)、その回想によると、キャンベルから「君がほとんどを書いている雑誌なんだから、編集も出来るはずだ。」〔Ashley, ''History of SF Magazine Part 4'', pp. 40–42. The quote is given as "You write most of it, you might as well edit it" in Transformations, p. 99.〕と言われて編集長の職に就いたのだった。
タブに提出される作品の質は「恐るべきもの」だったとSF史家マイク・アシュリーは述べている〔Ashley,'' History of SF Magazine Part 4'', p. 40〕。しかもその中には一度キャンベルに却下された作品も含まれていた(キャンベルは全ての原稿に関して記録を付けていたので、タブはそれと知ることができた)。ある作品などは20年も昔の『アスタウンディング』からの剽窃であり、もちろん却下された。タブ編集長による原稿採用率は25分の1であった。雑誌の品質を保つ困難さに気付いたタブがやむを得ず変名で自ら創作するうち、一巻がそれで埋まってしまうこともあった〔Ashley, ''History of SF Magazine Part 4'', pp. 40–42〕。
1957年の初め、本誌を店頭で目に付きやすくするため、タブは社長を説得して判型をポケットブック(ほぼB6に相当)からダイジェスト・サイズ(ほぼA5判に相当)へと大きくした。発行部数は確かに向上し、月1万4千にまでなった(ただしこの部数はランズボーロウ時代の初期に見られた3万部と比べれば微々たるものであった)。一応の成績改善にも関わらず、ハミルトン社はアメリカのベストセラー(おそらくはエヴァン・ハンターの『暴力教室』)をイギリスでペーパーバック化する権利を買い取る資金捻出のため『オーセンティック』廃刊を決定し、タブに2ヶ月の猶予を与えて雑誌を畳ませた。1957年10月が最終号となった〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「オーセンティック・サイエンス・フィクション」の詳細全文を読む




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