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アジアタッグ王座(アジアタッグおうざ)は、PWFが管理する全日本プロレスのフラッグシップタイトルである。正式名称はオールアジアタッグ選手権。 == 歴史 == 1955年11月に日本プロレスがアジアのシングル・タッグ両王者を決定するためのアジア選手権を開催し、そのタッグ部門で優勝したキング・コング&タイガー・ジョキンダーをアジアタッグ王者として認定したのが始まりである。力道山&豊登が3代目の王者になって以来、日本プロレスの看板タッグタイトルとして幾多の名勝負が繰り広げられた。 日本プロレスがジャイアント馬場をエースとする時代に入り、インターナショナル・タッグ王座が日本に持ち込まれると二番手に降格された。とはいえ、日本プロレス時代の挑戦者チームには、ドリー・ファンク・ジュニア&ハーリー・レイス、アブドーラ・ザ・ブッチャー&カリプス・ハリケーン、クリス・マルコフ&ブル・ラモス、ジン・キニスキー&キラー・カール・コックスなどの強力チームが名を連ねている。ブロンド・ボンバーズ(リップ・ホーク&スウェード・ハンセン)やミネソタ・レッキング・クルー(ジン・アンダーソン&オレイ・アンダーソン)、ネルソン・ロイヤル&ポール・ジョーンズの牧童コンビ、アル・コステロ&ドン・ケントの2代目ファビュラス・カンガルーズなど、当時のアメリカン・プロレス界を代表する「タッグ屋」の挑戦も受けた〔。 当初は王者に授与されるのはベルトではなく、トロフィーだったが、第18代王者の吉村道明&大木金太郎からはベルトとなった。 日本プロレス崩壊後は他のタイトルとともに全日本プロレスに受け継がれたが、全日本側は崩壊当時の王者チームであるグレート小鹿&松岡巌鉄組に防衛戦をさせる気がなく、一時的に王座は休眠状態となる。1976年2月に新日本プロレスが「アジア王者がいないのはおかしい」とアジアヘビー・アジアタッグの王座創設を発表したのに伴い、それに対抗して日本・全日本版アジアタッグ王座の復活が決定し〔馬場が新日本へのカウンターとして復活させたものだが、外聞的には日本プロレス代表の長谷川淳三(芳の里)の意向とされていた。〕、現在に至るまで受け継がれている。この時の復活王者はグレート小鹿&大熊元司の極道コンビで、これ以降、若手・中堅用のタイトルという性格となり、現在では主力レスラーへの登龍門と化している。もう1つのタッグ王座である世界タッグ王座と比較すると軽視されがちであるが(1980年代にはアジアタッグ王者が世界最強タッグ決定リーグ戦に出場できないことも珍しくなかった)、60年以上の歴史を持つ、日本最古のベルトである。 なお、アジア選手権のシングルの王者が認定された「アジアヘビー級王座」も同様に力道山によって創設され、日本プロレスから全日本プロレスに受け継がれた。しかし、1977年に当時の王者・大木がジャイアント馬場とのタイトル戦に敗れた際に、新王者馬場がタイトルの封印を宣言。1981年に大木が当時所持していたインターナショナル・ヘビー級王座を返上する代替として、このアジアヘビー級選手権の返還を受け、そのベルトを所持したまま大木が引退したため、現在ではタイトルマッチ自体が行われていない。 新日本プロレスが創設を宣言したアジア王座は、初代ヘビー級王者がタイガー・ジェット・シン、初代タッグ王者が坂口征二&ストロング小林と認定されたが、すぐに休眠状態に入り消滅した。なお、なぜかアントニオ猪木はアジアヘビー級のリーグ戦に参加せず、シンを相手にNWFヘビー級選手権を行なっている〔のちに新日本は、IWGP第1回大会が行われる直前に「世界統一の前にアジア統一を」と、IWGPの下部王座という形での新日本版アジア王座の復活構想をぶち上げたことがあった。ゆくゆくは全日本版のアジア王座との統一も狙うとしていたが、この構想はいつの間にか立ち消えとなった。〕。 ジャイアント馬場が出場した最後のタイトルマッチが、1989年3月27日に小橋健太と組み、川田利明&サムソン冬木に挑戦した、このアジア・タッグ選手権だった。なお、馬場が初めて奪取したタイトルも、豊登と組んでのアジア・タッグ選手権である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アジアタッグ王座」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 All Asia Tag Team Championship 」があります。 スポンサード リンク
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