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カイソウ : よみがなを同じくする語

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カイソウ : ミニ英和和英辞書
カイソウ
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


カイソウ : ウィキペディア日本語版
カイソウ

カイソウ1941年 - 没年不詳)とは日本競走馬である。第二次世界大戦の最中であった1944年、日本ダービー(東京能力検定競走)に優勝した。同年の長距離特殊競走(現:菊花賞)も1位で入線したが、全出走馬の騎手がコースを間違えて周回したため競走不成立となり、クラシック二冠を逃した。競走馬引退後は軍馬として将校の乗馬に供されたと伝えられるが、正確な消息は不明。
現在「東京優駿(日本ダービー)」として行われている競走は、カイソウが優勝した1944年昭和19年)は馬券発行も一般観客もない東京能力検定競走として行われた。この記事では便宜上日本ダービーと呼称する。
''※馬齢は日本で2000年以前に使用された数え年で記述する。''
== 生涯 ==
カイソウは1941年(昭和16年)、北海道の錦多峯(にしたっぷ)牧場で生まれた。2歳時に札幌セリに出され、建築業を営む有松鉄三に9000円で落札された〔今井(1986)pp.70-72〕。父はアメリカの名馬マンノウォーの子である持込馬月友、母・第二ベバウ(競走名ロンプ)は軽半種ながら帝室御賞典(小倉)優勝馬(全12勝)だった〔。当初は有松の出身地である小倉の渋川久作厩舎に入る予定だったが、有松の所有馬を数多く管理していた条野源信が久保田金造厩舎(京都競馬場)にいた関係で、久保田に預けられた〔『調教師の本III』p.11〕。
4歳になった1944年(昭和19年)4月23日京都競馬場の芝1600メートルの競走でデビューした。ここはヤマトマスラヲのハナ差2着に敗れたが、5日後のレースで勝利を挙げる。その後ほぼ休むことなく走り続け、6月に東上。それまで騎乗していた杉村繁盛に代わり、久保田金造の兄・彦之の厩舎にいた橋本輝雄が騎乗した〔。東京競馬場での前哨戦に勝利したのち、18日に日本ダービーに出走。この年は太平洋戦争の戦況が悪化していたこともあり、日本各地では続々と競馬の開催が中止となった。横浜をはじめ阪神札幌函館新潟福島と閉鎖され、東京と京都でのみ「能力検定競走」として存在していた。そのような状況であるから、この年の日本ダービーは観客は一切おらず、軍人や馬主など関係者200人あまりが見守るなかで行われた。騎手の橋本は当時を振り返り「スタンドは無人同然でいかにも寂しかった」と語っている〔。馬券の発売もなく、人気もまったくわからなかった〔。
前日の豪雨で重馬場となったなか、カイソウはスタート後の第2コーナーから3番手と好位につけると、向正面を経て第3コーナーで早くも先頭に立った〔『日本ダービー25年史』p.53〕。そのまま最終コーナーから最後の直線を逃げきり、2着シゲハヤに5馬身差をつけて優勝を果たした〔。農商省賞典(現・皐月賞)を制したクリヤマトも出走していたが、カイソウから10馬身離された4着に終わっている〔。関係者はいずれもダービー初勝利で、北海道産馬の初勝利ともなった。橋本は「前走でカイソウに乗り、古馬相手に勝っていたから本番でも自信があった〔」と当時を回想している。
その後カイソウは京都に戻り、吉田三郎が手綱を執った秋初戦で勝利を挙げたのち、12月8日長距離特殊競走でクラシック二冠に挑んだ。カイソウはこの競走で1位に入線、いったんは結果が確定されたが〔『優駿』1983年6月号、p.61〕、翌1945年1月21日になって競走不成立の裁定が下された〔小堀(1981)p.41〕。従来、京都3000メートルの競走では、内外ふた通りあるコースを内回りから外回りの順に2周していたが、この競走に限り発走地点をずらして内回り2周に変更されていた。しかし騎手たちに周知徹底されておらず、全騎手が従来通り「内→外」のコースを取ったため3100メートルを走り、不成立となったものだった〔。このコース変更は競馬会の裁決委員さえ認知していなかったとされる〔。3位入線馬クリアズマに騎乗していた小西喜蔵によれば、先頭でレースを進めていた田中康三(シゲハヤ騎乗)は規定通り2周目も内回りコースに入ろうとしていたが、蛯名武五郎(マツメイ騎乗)が「外だぞ、外だぞ」と叫び、全馬が外回りコースへ導かれていったという〔。
長距離特殊競走後、カイソウは一戦走るが6着に終わり、現役最後のレースとなった1級種牡馬選定では12着と惨敗した。これを最後として引退したが、種牡馬選定競走での大敗、サラブレッド系種という血統が影響して種牡馬とならず、軍の乗馬となった〔。その後の消息は不明である〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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