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カイソーン・ポムウィハーン(,Kaysone Phomvihane, 1920年12月13日 - 1992年11月21日)はラオスの政治家、革命家。初代ラオス人民革命党中央委員会書記長・議長、初代ラオス人民民主共和国首相、第2代ラオス人民民主共和国主席などの要職を務め、同国の最高指導者の地位にあった。 == 経歴 == 母親がラオス人で、父親がベトナム人であるといわれる〔青山(1995年)、138ページ。〕。出生時の名前はグエン・カイ・ソン(Nguyen Cai Song)。 1943年から、ハノイ大学で法律を学ぶ。しかし2年後、日本軍の侵攻で大学は閉鎖されると、ベトナムで反植民地運動に参加する。1949年、インドシナ共産党に入党。1950年にはネーオ・ラーオ・イサラ(ラオス自由戦線)の中央委員に選出され、臨時抗戦政府の国防相に就任。1955年3月22日、インドシナ共産党ラオス地方委員会が改組されてラオス人民党が成立すると、カイソーンは同日に開催された第1回党大会で書記長に選出された。翌年1月、ネーオ・ラーオ・イサラはラオス人民党指導下の左派大衆組織であるネーオ・ラーオ・ハクサート(ラオス愛国戦線)に改組され、カイソーンは党書記長としてネーオ・ラーオ・ハクサート中央委員会に入り、副議長に就任した。ネーオ・ラーオ・ハクサートの議長はスパーヌウォンであったが、ネーオ・ラーオ・ハクサートはラオス人民党の指導を受けるため、カイソーンが実質的にネーオ・ラーオ・ハクサートの最高指導者となった。 ラオス内戦が激化するなか、カイソーンはネーオ・ラーオ・ハクサートおよびその軍事組織であるパテート・ラーオを率い、ゲリラ戦を展開した。カイソーンの指導の下、パテート・ラーオ軍の勢力は拡大し、ラオス和平会談が開始された1972年の時点で国土の約3分の2と人口の半数を支配下に置いた〔山田(2002年3月)、122ページ。〕。1972年2月の第2回党大会でラオス人民党はラオス人民革命党と改称し、カイソーンが党書記長に再選された。カイソーンは党大会を主宰し、政権奪取後の国家建設方針を策定した。 内戦終結後の1975年12月2日、王政が廃止されてラオス人民民主共和国が建国されると、カイソーンは初代首相に就任した。社会主義体制となったラオス人民民主共和国ではラオス人民革命党が国家機構を指導するという政治構造となっており、また建国当初の国家機構においては首相に権限が集中するようになっていたため、党書記長兼首相のカイソーンが同国の最高指導者となった。 カイソーン率いるラオス人民革命党は建国後、急激な社会主義化を進めた。だが、この急進的な社会主義化は経済の破綻を招いた。そのため、1979年からは市場経済原理を部分的に導入した。しかし、このときの経済改革は1982年4月の第3回党大会で社会主義路線に沿った社会・経済開発が強調されて経済の自由化は見送られる〔山田(2002年3月)、122ページ。〕など、不徹底なものだった。なお、カイソーンはこの党大会で書記長に再選されている。 その後、さらに経済状況が停滞すると、カイソーンは本格的な経済改革に着手する。1986年11月の第4回党大会で書記長に再選されたカイソーンは、「チンタナカーン・マイ(新思考)」政策を提唱して改革・開放を党規約に規定し、社会主義の枠内での経済自由化・開放化に乗り出した〔山田(2002年3月)、125ページ。〕。 1991年3月、第5回党大会において書記長および書記局が廃止されると、カイソーンは中央委員会の日常職務を指導・監督する新設の議長職に就いた〔山田(2002年3月)、128 - 129ページ。〕。同年8月に開催された第2期第6回国会において共和国初の憲法が制定され、今まで儀礼職であった国家主席の権限が強化されると〔山田(2002年3月)、129ページ。〕、8月15日、カイソーンは国家主席に就任した。 党と国家の最高職を独占して権限を強化し、経済改革を推進するための権力を掌握しようとしたカイソーンであったが、翌年11月21日に死去した。11月28日、葬儀が執り行われ、火葬に付された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「カイソーン・ポムウィハーン」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Kaysone Phomvihane 」があります。 スポンサード リンク
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