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カイル・アボット(Lawrence Kyle Abbott, 1968年2月18日 - )は、メジャーリーグベースボールの左投左打の投手。アメリカ合衆国のマサチューセッツ州出身。 == 来歴・人物 == カリフォルニア州立大学ロングビーチ校、カリフォルニア大学を経て、1989年にカリフォルニア・エンゼルス(現ロサンゼルス・エンゼルス)にドラフト1巡目(全米9番目)で入団〔。エンゼルスは前年のジム・アボットから2年連続でアボット姓の左投手をドラフト1巡目で指名したことになる。特別目を見張る数字を残したわけではなかったがマイナーの出世街道をとんとん拍子で進み、プロ入り3年目の1991年、9月10日のテキサス・レンジャーズ戦で先発投手として登板し、メジャーデビューを果たした。 同年オフにボン・ヘイズとのトレードでルーベン・アマロ・ジュニアとともにフィラデルフィア・フィリーズへ移籍。迎えた1992年、アボットはフィリーズでも先発を務めていたが、5月18日の登板で敗戦投手になり、開幕から1勝も出来ずに7連敗となった。そこで一旦マイナーへと降格。マイナーでは5試合で35.0回を投げ、防御率1.54という好投を見せたため、6月21日の試合でメジャー復帰を果たした。しかし復帰後の4試合で4敗を喫し、遂に開幕11連敗。11連敗した時点での防御率も5.40と、決して誉められるものではなかった。その後は7月18日にようやくシーズン1勝目を手にしたが、8月序盤に2連敗を喫し、8月中旬からはリリーフを務めるようになった。しかしリリーフで登板した12試合でも防御率8.82、被打率.324と散々で、シーズンでは1勝14敗という数字に終わった。 前年の結果を受けて、1993年はマイナーから出直す年となった。この年は1年を通してマイナーでプレイし、12勝を記録するも、オフにはフィリーズを解雇され、翌1994年は日本の近鉄バファローズでプレイすることになった。だがバファローズでは脚の故障もあって4試合の出場にとどまり、シーズンオフには再びフィリーズに入団した〔。 出戻りの年となった1995年はリリーフばかりで18試合に登板。シーズン最初の登板で白星を手にするなど、14試合に登板した時点では防御率2.84となかなかの投球を見せていたが、その後4試合で防御率12.00と打ち込まれ、終わってみれば特別目立った数字を残すことは出来なかった。 シーズン終了後にフリーエージェントとなり、1996年5月29日にようやく古巣のエンゼルスと契約。しかし8月の3試合に登板して9失点しただけというシーズンに終わってしまった。この年限りで現役を引退。ドラフト1巡目選手ではあったが、第二のジム・アボットとはいかず、目立った実績を残せないままの引退となった。 ちなみに、1996年にアボットが付けていた背番号は、後に松井秀喜が背負うことになる55番だった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「カイル・アボット」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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