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郝 昭(かく しょう、生没年不詳)は、中国後漢末期から三国時代にかけての人物。魏の軍人。字は伯道。并州太原郡の出身。子(嫡子)は郝凱。『明帝紀』が引用する『魏略』に記述がある。 若い頃から軍人として曹操に仕えた。勇猛果敢で、各地を転戦して武功を立て、雑号将軍となった。また曹丕(文帝)の時代には河西一帯の守備を任された。西平郡の麹英が反乱を起こした時は、同僚の鹿磐と協力してこれを鎮圧し、麹英を殺害している。 228年、蜀漢の諸葛亮が侵攻し陳倉を包囲した。諸葛亮は郝昭の同郷である靳詳を派遣して降伏を呼びかけたが、成果はなかった。一方、守備を任されていた郝昭は曹真の命を厳格に守り、数千程度のわずかな軍隊で諸葛亮の軍勢を寄せ付けず、頑健に防衛した。結局攻防戦が二十余日にも及んだため、諸葛亮は陳倉を落とせないまま兵糧が底をついてしまい、魏の援軍も迫ったので撤退した(陳倉の戦い)。陳倉の戦役は、諸葛亮自身が直接指揮を執った戦いとしては初めての敗戦となったため、寡兵で蜀の大軍を退けた郝昭の名は益州全土に広まったという。事実、彼が陳倉を防備していた間は、二度と蜀軍が陳倉城に攻め入る作戦を採ることはなかった。 洛陽に凱旋した郝昭は曹叡(明帝)からその戦功を褒め称えられ、列侯の爵位を与えられた。しかし、曹叡が郝昭を要職に抜擢しようとすると、程なく病に倒れた。 彼は臨終の際、子に対し「わしは将軍であったから、将軍など大したものでないことを知っておる。また陵墓を発いて、その木を使い武器を作ったこともあるから、手厚い葬式など死者には無用のものであることも知っておる。お前は必ずわしが今着ている服のまま埋葬せよ。ただ生者にのみ居場所があるのであり、死後に居場所などあるはずがあろうか。ここは元の先祖代々の地からは遠い。東西南北お前の都合のいいところに埋葬するがよかろう」と言い遺した。 没後、子が後を継いだ。 小説『三国志演義』では「雑覇将軍」という設定になっている。また、蜀側では郝昭が重病に倒れた隙を突いた諸葛亮が、陳倉城を急襲して落としたことにしており、さらに魏側では既に郝昭が病死したため、陳倉の防備を放棄したということにされている。 ==外部リンク== *魏志明帝紀 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「カク昭」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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