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カク鵬挙[かく ほうきょ]
郝 鵬挙(かく ほうきょ、1903年1月29日 - 1947年4月)は、中華民国の軍人。国民軍、国民革命軍に属し、後に南京国民政府に参加する。さらに国共内戦期には、一時的ながらも、中国共産党陣営に属した。幼名は勉。字は騰霄。 == 事績 ==
=== 国民軍から国民革命軍へ === 県公署衙門の役人の家庭に生まれた。しかし郝鵬挙の父はアヘン吸引により退廃し、家庭も貧窮に陥ったとされる。郝は当初学問を志し、洛陽の省立第四師範学校を卒業した。1922年(民国11年)5月、郝は一転して、当時の河南督軍馮玉祥の軍に加入した。郝は軍内で次第に昇進していく。1925年(民国14年)1月に馮が西北辺防督軍として張家口に駐屯すると、郝もこれに追随する。同年11月、郝はソビエト連邦に軍事留学し、優秀な成績をあげた。帰国後、馮が国民革命軍の北伐に呼応すると郝は軍功をあげ、1928年(民国17年)5月、第2集団軍第2軍参謀長に抜擢されている〔王(1997)、266-267頁。〕〔鄭。〕〔徐主編(2007)、1008頁。〕〔劉国銘主編(2005)、1704-1705頁。〕。 しかし翌年春に馮玉祥が蒋介石との戦いを開始すると、郝鵬挙は馮の劣勢を見て逃亡し、鄭州に逃げ込む。1930年(民国19年)10月、江蘇省北部に駐屯した旧同僚の梁冠英率いる第25路軍に加わり、総指揮部参謀処長に任命された。さらに、ソ連留学時代の同学である賀衷寒の伝手により、藍衣社(中華民族復興社)にも加入している。その後、郝は梁と対立して一時罷免されたが、賀の手はずにより、1933年(民国22年)8月、第30軍参謀長に任ぜられた。しかしその後も郝は、梁の第25路軍から軍の引抜きを図ったり、梁を失脚させようとしたりするなど、問題行動が多かった。そのため上司である第30軍軍長孫連仲は郝を罷免し、陸軍大学第14期での再訓練を命じている〔王(1997)、267頁。〕〔〔〔劉国銘主編(2005)、1705頁。〕。
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