|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ラン : [らん] 【名詞】 1. (1) run 2. (2) LAN (local area network) 3. (P), (n) (1) run/(2) LAN (local area network)
パキメ (Paquimé) は、メキシコ北東部、チワワ州に残る先コロンブス期の考古遺跡である。州都チワワの北西約240 km、ハノス (Janos) の南約56 km の、カサス・グランデス川沿いの開けた肥沃な渓谷に位置し、州北西部の考古遺跡地帯の中では特に重要なものの一つと見なされている〔Phillips and Bagwell (2001)〕。北米のプエブロ文化とメソアメリカの先住民文化の交流を証明する点などに価値があり、1998年にはUNESCOの世界遺産リストに登録された。 スペイン語で「大きな家々」を意味するカサス・グランデスという名でも呼ばれるが、そちらは現在では所在地の地方自治体、カサス・グランデス市 (Casas Grandes) の名前にも使われている。この市は、近隣のより大きな自治体ヌエボ・カサス・グランデス (Nuevo Casas Grandes) とは別のものである。 == 歴史 == 一帯に人が住むようになったのは、8世紀頃と推測されている。このころに現在の米国ニューメキシコ州の辺りに住んでいたモゴヨン人 (Mogollon people) が南下してきたのである〔ICOMOS (1998) p.40〕。時期区分はいくつかあるが、11世紀半ばか12世紀半ば頃までは、アドベ(日干しレンガ)を使った草葺き屋根の竪穴住居で暮らしていた〔〔長谷川 (1999) p.72〕。この時期は「ブエナ・フェ相」とも呼ばれる〔。 それ以降、14世紀頃までに集落は飛躍的に拡大し、建築様式も劇的に変化した。この時期は「パキメ相」とも呼ばれる〔。アドベを使ったアパートのような区画割された住居群が建てられるようになった。屋根には松の板や泥を使ったものになり、壁は白く塗られるか彩色されるかして仕上げられるようになった〔。 入り口は頭でっかちなT字型(棒付きアイスのような形、右の画像参照)で、下端が上端よりも細く狭まっている。この奇妙な形は外敵の侵入を警戒した結果とされている〔。 最大の集落は今日パキメないしカサス・グランデスとして知られている。それは最初、広場を備えて周囲を壁でめぐらせた20かそれ以上の住居群 (house clusters) のグループとして始まった。これらの一階建てのアドベの住居には、共同の水利システムが存在していた。考古学的知見に基づき、パキメには地下の下水道、貯水庫、各戸向けの水路、汚水システムなどを含む複雑な水利システムが備わっていたことが明らかになっている〔Deeds (2000), p.49〕。 この頃のパキメはトルコ石、塩、銅、陶器などの交易を大規模に行なっていたと推測されている〔世界遺産アカデミー (2009) p.148〕〔。アドベの建築物は北米のプエブロ文化との共通性を感じさせるものであり、よく似た遺跡は、米国ニューメキシコ州のヒラ (Gila) やサリナス・プエブロ (Salinas) 近郊のほか、コロラド州にも残っており、いずれもモゴヨン文化 (Mogollon culture) の文化グループに属するものである。他方で、I字型のメソアメリカ式の球戯場 (Mesoamerican ballcourts)やケツアルコアトルの図像なども見付かっており、幅広い文化的影響が反映されている〔。特殊な工芸としては、銅製の鐘や装飾品、海の貝類に由来するビーズ製品、陶器などが挙げられる。 それらをつくる技術は、広範な交易網を通じて広まった。パキメの遺跡にはいくつかのあだ名がついた部屋があるが、「井戸の部屋」では大量の貝殻が、「かまどの部屋」ではメスカルの製造跡が見付かっており、グアテマラのコンゴウインコの羽などとともに、広範な交易網の存在を裏付けている〔。「コンゴウインコの部屋」では、122羽もの鳥の骨が埋葬されていた〔ICOMOS (1998) p.41〕。 パキメの陶器は白ないし赤みを帯びた表面で、青、赤、茶、黒などの彩色がなされており、現在の同じ地域の陶器よりも優れているものも見られる。容器類は、しばしば彩色された人物を象ったものになっている。パキメの陶器は、メキシコ北部で広く取引されただけでなく、現在の米国ニューメキシコ州やアリゾナ州に当たる地域でも取引された。パキメの陶器に関する大規模なコレクションは、現在、米国ユタ州のブリガム・ヤング大学の人間文化博物館 (Museum of Peoples and Cultures) が保有している。 その最盛期は14世紀から15世紀初頭と推測され、その頃には1万人の人口を擁していたと考えられているが、その後急速に衰えていき、入植したスペイン人たちも、一帯については小さな農業集落の存在に触れているに過ぎない〔。 学術的な発掘は1920年代に始まったが、本格的になるのは1950年代末以降のことである〔。世界遺産に登録された1998年の時点では、まだ全体の20%が発掘されているに過ぎなかった〔。 パキメの考古遺跡は1972年の文化財保護法で保護され、1992年には「パキメ考古遺跡地域」(the Archaeological Monuments Zone of Paquimé) という保護区域が設定された〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「パキメ」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Casas Grandes 」があります。 スポンサード リンク
|