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カザン・ハン国 (カザン・ハンこく、、 (Kazanskoe khanstvo)) は、15世紀から16世紀にかけてヴォルガ川中流域を支配したテュルク系イスラム王朝。ジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)の継承国家のひとつで、国名は首都はカザンに置いたことに由来する〔小松「カザン・ハーン国」『ロシアを知る事典』、134頁〕。 == 歴史 == カザン・ハン国はチンギス・ハーンの長男ジョチの十三男トカ・テムルの末裔であるウルグ・ムハンマド(大ムハンマド)を祖とする。ヴォルガ川下流のサライ周辺において行われたジョチ・ウルスのハン位を巡る抗争に敗れたウルグ・ムハンマドは、ジョチ・ウルス領の北方辺境であったヴォルガ・ブルガール王国の故地に退き、1438年にカザンを首都とする政権を樹立した。ウルグ・ムハンマドの子の一人マフムーデクは父を殺害し、マフムーデクの弟カースィムはモスクワ大公国に亡命する。1452年頃にカースィムは自分の名前にちなんだカシモフという城市をモスクワから与えられ、カシモフ・ハン国を建国した〔グルセ『アジア遊牧民族史』下、754頁〕。 1468年にマフムーデクの子イブラーヒームはモスクワとの戦闘に勝利し、ヴャトカを従属させた。イブラーヒームの子であるアドハムとムハンマド・エミーンがハン位を巡って争い、アドハムがハン位を勝ち取った〔グルセ『アジア遊牧民族史』下、755頁〕。敗れたムハンマド・エミーンはモスクワに援助を求め、モスクワ軍の助力を得て帰国したムハンマド・エミーンは1487年にハンに即位する〔。カザン・ハン国はクリミア・ハン国との関係が深く、国内ではモスクワ大公国を支持する親モスクワ派とクリミア・ハン国を支持する親クリミア派の対立が続いた〔。1487年からモスクワはカザンへの干渉を強めて傀儡のハンを積極的に擁立する〔川口琢司「キプチャク草原とロシア」『中央ユーラシアの統合』、298-299頁〕。当初モスクワはクリミア・ハン国の利害を考慮し、クリミア・ハン国の君主メングリ・ギレイの義理の息子であるムハンマド・エミーンとアブドゥッラティーフの兄弟をハン位に就けた〔。1505年、ムハンマド・エミーンはモスクワからの干渉に抵抗し、翌1506年にモスクワの軍勢を撃破する。 1518年にムハンマド・エミーンが子を遺さず没した時にモスクワとクリミア・ハンの関係は悪化しており、モスクワはカシモフ・ハン国のシャー・アリーをハン位に就けた〔。メングリの子メフメド・ギレイはカザンの王族の要請に応じて弟のサーヒブ・ギレイをカザンに派遣し、サーヒブはカザンのハンとなるが、モスクワ大公ヴァシーリー3世によってカザンと外部の連絡が絶たれる。ヴァシーリー2世が送り込んだ親モスクワ派の人間によってカザンのイスラム教徒のキリスト教への改宗が進められ、メフメドはモスクワに対抗してカザンに派兵し、リトアニア大公国と共同してモスクワへの懲罰遠征を実施した。メフメドは遠征中に殺害され、モスクワのカザン進攻を知ったサーヒブは1524年にクリミアに帰国し、甥のサファー・ギレイをカザンのハンに就けた〔。しかし、モスクワはなおも傀儡のカザン・ハンの擁立を企て、カザン内部の親モスクワ派と連絡を取っていた〔。1530年にサファーはモスクワによってカザンを追放され、代わってシャー・アリーの兄弟ジャーン・アリーがハンに即位する。1535年にカザンで起きた反乱によってジャーン・アリーは失脚し、再びサファーがカザン・ハンとなる〔グルセ『アジア遊牧民族史』下、758-759頁〕。 カザンがクリミアの影響下に入った後、カザンとモスクワの関係は悪化し、1534年から1545年にかけてカザンは毎年ロシア東部・北東部の国境地帯に侵入した〔栗生沢「イヴァン四世雷帝とその時代」『ロシア史 1』、233-234頁〕。サファーの死後に彼の子であるオテミシュ・ギレイがハン位を継承したが、オテミシュはモスクワによって廃され、みたびシャー・アリーがハン位に就いた。シャー・アリーに代わってノガイ・オルダから招かれたアストラハン家のヤーディガールがハンに擁立されたが、この事態を受けてモスクワ大公イヴァン4世はカザンの征服を決意する〔グルセ『アジア遊牧民族史』下、759頁〕。イヴァン4世はこれまでに3度のカザン遠征を実施し、1552年夏の4度目の遠征でカザンはモスクワに征服される〔。8月23日にカザンは包囲を受け、10月2日に陥落、篭城していた男子は全員殺害され、婦女子は捕虜とされる()。カザンからタタール人は追放され、17世紀半ばまでカザンはロシア人の町となった〔。カザンの併合はテュルク系諸民族の間で長く語り継がれ、英雄叙事詩『チョラ・バトゥル』が生み出された〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「カザン・ハン国」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Khanate of Kazan 」があります。 スポンサード リンク
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