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カシュガル・ハン国 : ミニ英和和英辞書
カシュガル・ハン国[くに]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [くに]
 【名詞】 1. country 

カシュガル・ハン国 ( リダイレクト:ヤルカンド・ハン国 ) : ウィキペディア日本語版
ヤルカンド・ハン国[やるかんどはんこく]
ヤルカンド・ハン国は、16世紀から17世紀にかけて東トルキスタンに存在していた国家モグーリスタン・ハン国(東チャガタイ・ハン国)の君主スルターン・サイードと彼の子孫の王朝であり、「ヤルカンド・ハン国」あるいは「カシュガル・ハン国」の名前で呼ばれる〔中見、濱田、小松「中央ユーラシアの周縁化」『中央ユーラシア史』、301頁〕。
== 歴史 ==
モグーリスタン・ハン国のアフマド・アラク・ハンの次男スルターン・サイードは、ティムール朝の王族バーブルの保護を受けてカーブルで3年を過ごした。モグーリスタンに帰還したスルターン・サイードは東トルキスタン西部を支配するドグラト部の有力者ミールザー・アバー・バクルを追放し、1514年にハンを称した〔中見、濱田、小松「中央ユーラシアの周縁化」『中央ユーラシア史』、300頁〕。当時モグーリスタン東部のトルファンにはサイードの兄マンスールが建てたウイグリスタン・ハン国が存在し、両者は互いの権威を認めず争うがやがて和解し、モグーリスタンに二つの政権が並立した〔。サイードは草原地帯の確保を試みるが、ウズベクカザフに圧迫され、支配領域はカシュガルヤルカンドを中心とするタリム盆地西部のオアシス地帯に限定されていた〔中見、濱田、小松「中央ユーラシアの周縁化」『中央ユーラシア史』、300-301頁〕。マンスールがに対する聖戦(ジハード)を行っていた頃、北方の草原地帯を喪失したサイードはラダックバルーチスターンに聖戦を行った〔濱田「モグール・ウルスから新疆へ 東トルキスタンと明清王朝」『東アジア・ 東南アジア伝統社会の形成』、103頁〕。サイードの跡を継いだアブドゥッラシードは強大な勢力を有するドゥグラト部と対立し、ドゥグラト部の有力者サイイド・ムハンマド・ミールザーは処刑され、サイードの治世に功績を挙げたミールザー・ハイダル・ドゥグラトは国外に亡命する〔ルネ・グルセ『アジア遊牧民族史』下(後藤富男訳, ユーラシア叢書, 原書房, 1979年2月)、794,796頁〕。
サイードの治世以降、多くのマー・ワラー・アンナフルスーフィー(イスラームの修行僧)が東トルキスタンを巡錫するようになり、サイードとアブドゥッラシードはスーフィーに帰依した〔中見、濱田、小松「中央ユーラシアの周縁化」『中央ユーラシア史』、302-303頁〕。アブドゥル・カリーム・ハンの治世にアフマド・カーサーニー(マフドゥーミ・アーザム)の子ホージャ・イスハークがカシュガルを訪れる〔中見、濱田、小松「中央ユーラシアの周縁化」『中央ユーラシア史』、303頁〕。アブドゥル・カリームの帰依を受けられなかったイスハークはホータンアクスクチャを訪れ、アブドゥル・カリームの弟ムハンマドに道統を授けてサマルカンドに帰還した〔。1591年にアブドゥル・カリームが没した後、ムハンマドがハンの位に就く。ムハンマドは東トルキスタンにおけるイスハークの筆頭弟子でもあり、イスハークの子ホージャ・ムハンマド・ヤフヤーはカシュガルのムハンマドを頼り、彼を通して父の道統を継承する〔。ヤフヤーはムハンマドを含む7人のハンの師父となり、ハン位の継承問題にも介入する〔。主要なオアシス土地を支配する王族のハンの地位を巡る争いはヤフヤーの政治への介入を容易にし、7人のハンの中には彼に毒殺された者もいた〔濱田「モグール・ウルスから新疆へ 東トルキスタンと明清王朝」『東アジア・ 東南アジア伝統社会の形成』、108頁〕。
ヤフヤーの従弟ムハンマド・ユースフもカシュガルを訪れたが、ヤフヤーと対立したために東の粛州西寧で布教活動を行った〔中見、濱田、小松「中央ユーラシアの周縁化」『中央ユーラシア史』、304頁〕。イスハークの子孫であるイスハーキーヤとムハンマド・ユースフの子ヒダーヤット・アッラー(ホージャ・アーファーク)の子孫であるアーファーキーヤはヤルカンド・ハン国の主導権を巡って争い、ヒダーヤットも父と同様に中国で布教を行った〔濱田「カシュガル・ホージャ」『中央ユーラシアを知る事典』、124-125頁〕。
1678年ジュンガルガルダン・ハーンによってハミ、トルファンが占領され、1680年にカシュガル、ヤルカンドが陥落する。ガルダンはイスマーイール・ハンを廃位し、傍系のアブドゥッラシードを傀儡のハンに擁立した〔。ガルダンの侵攻の前、カシュガルから追放されたヒダーヤットがチベットに行き、ダライ・ラマ5世の親書を携えてガルダンの元に赴いたことがイスハーキーヤ側で編纂された史料に記されている〔濱田「モグール・ウルスから新疆へ 東トルキスタンと明清王朝」『東アジア・ 東南アジア伝統社会の形成』、109頁〕。アブドゥッラシードがジュンガルによってイリに拉致された後、アブドゥッラシードの兄弟ムハンマド・アミーンがハンに擁立されるが、1692年にムハンマド・アミーンはアーファーキーヤによって殺害される。ジュンガルの支配下に置かれた後もイスハーキーヤを支持するハンとアーファーキーヤの抗争は続き、ムハンマド・アミーンの次にハンとなったムハンマド・ムッミーンは1696年/97年にアーファーキーヤとの戦闘で陣没する。また、1696年にガルダンが軍に敗れた後、イリのアブドゥッラシードは清に降伏した〔。北京に移住したアブドゥッラシードの子孫を除いてモグーリスタン・ハン国の王統は途絶え、モグーリスタン・ハン家の王女を祖母に持つヒダーヤット・アッラーの孫アフマドがハンを称した〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Yarkent Khanate 」があります。




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