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カシュミール・スルターン朝 : ミニ英和和英辞書
カシュミール・スルターン朝[かしゅみーる するたーんちょう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [あさ, ちょう]
 (n-adv,n-t) morning

カシュミール・スルターン朝 : ウィキペディア日本語版
カシュミール・スルターン朝[かしゅみーる するたーんちょう]

カシュミール・スルターン朝(カシュミール・スルターンちょう, 英語:Kashmir Sultanate)は、北西インドカシュミール地方を支配した王朝(1339年 - 1586年)。首都はシュリーナガル
==歴史==
カシュミール地方には古くからヒンドゥー王朝が成立していた。11世紀から12世紀にかけて、この王朝ではトルキスタンホラーサーン出身のトルコ人傭兵が雇われていた〔小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、pp.132-133〕。
また、13世紀から14世紀にかけては、カシュミールは西方の経路によって中央アジアに繋がっていたため、モンゴル帝国の侵略を幾度となく受けた〔小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.133〕。とはいえ、南方に存在したデリー・スルターン朝はこの王朝には積極的な働きかけ行わなかった〔小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.132〕。
1339年(あるいは1346年)、ムスリム宰相シャー・ミールがヒンドゥー王朝から王位を簒奪し、シャムスッディーンの称号のもと王座につき、カシュミール・スルターン朝を創始した〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.160〕〔小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.133〕。この人物の出自はテュルク系ともアフガン系ともいわれるが、その出自はいまだに明らかではない〔小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.133〕。この人物の王統はシャー・ミール朝と呼ばれている。
この王朝の注目すべき点は、14世紀の段階でようやくムスリム王朝が成立したこと、北インドのトルコ系ムスリムの動向とは無関係に成立したことである。また、この王朝は他の地方王朝と違い、デリー・スルターン朝(当時はトゥグルク朝)の征服地ではない地域に成立したものである〔小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.133〕。
14世紀末に統治をはじめたシカンダルイスラーム教の熱烈な信者であり、ヒンドゥー教を弾圧、その寺院や群像を破壊したため、「偶像破壊者」の異名で知られた〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.160〕〔小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.133〕。そのため、カシュミール地方のイスラーム化が大きく進行した〔小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.133〕。とはいえ、彼は学者を手厚く保護し、西アジアから多くの学者がこの地へと移った〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.160〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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