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カジ・レンドゥプ・ドルジ(Kazi Lhendup Dorjee または Kazi Lhendup Dorji、1904年10月11日〔''India Who's who'', INFA Publications 2004, p. 247 〕 - 2007年7月28日)は、シッキム王国(後にインド)の僧侶・政治家。本名は「カジ・レンドゥプ・ドルジ・カンサルパ(Khangsarpa)」だが、「カジ・レンドゥプ・ドルジ」や「L. D. カジ」と呼ばれることが多い。第二次大戦後のシッキムで民主化運動に従事した政治家で、シッキム国民会議派(SNC)、シッキム会議派(SC)などで総裁を務めた。1974年にで勝利し、州首相に就任。翌年のシッキム王国の滅亡、インドへの編入において決定的な役割を果たした。主にネパール系を支持基盤とする政党の指導者だが、ドルジ自身はレプチャ・ブティア系出身である。 == 事績 == === シッキム政界への進出 === 1904年、インドと国境を接するシッキム最南部の(Pakyong)に生まれた。6歳の時にシッキム最大の僧院であるに入り、後にガントクのチベット学校で学習している。16歳の時にルムテク僧院に戻り、2年の修行の後に同僧院の主管を8年務めた。その後、兄と共にダージリンで青年の僧侶団体を結成し、シッキム西部を中心に各種学校建設の活動に取り組んでいる。〔J. R. Subba(2007), p.68.〕 1945年、カジ・レンドゥプ・ドルジ(以下、「ドルジ」と略す)は、シッキム・プラジャ・マンダル(Sikkim Praja Mandal)という福祉団体を創設し、以後シッキム政界での活動を開始することになる。1947年12月7日、ドルジは他の団体指導者と共にシッキム史上初の政党であるシッキム国家会議派(SCC)をガントクで結成した。SSCは、シッキムでは移住民ながら多数派に当たるネパール系住民を主体とした政党であり、また「地主制の廃止」「民主的責任政府の樹立」「シッキムのインドへの加入」を主張していた。そのためSSCは、原住民・支配階層ながら少数派に当たるブティア・レプチャ系住民を主体とし、「王室擁護」「シッキム独立」などを掲げるシッキム国民党(SNP)とは激しく対立した。〔落合(1986)、211-214頁。〕 しかし1950年にインド・シッキム条約が結ばれ、インド政府とシッキム王室の連携が強まると、ドルジは失望して反インド的姿勢を示すようになる。1953年、SSCの初代総裁タシ・ツェリンが死去するとドルジが後任の総裁に選ばれたが、党内有力者でインドや王室に接近するカシ・ラジ・プラダン(Kashi Raj Pradhan)との対立の末、1958年11月にSSCを離党、新党スワタントラ・ダル(Swatantra Dal)を結成している。しかし、同年のシッキム王国参事院(State Council、立法府に相当)選挙や1960年の参事院補欠選挙では、複雑なコミュナル選挙制度のためにいずれも落選を喫した。〔落合(1986)、222-225頁。〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「カジ・レンドゥプ・ドルジ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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