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カスタモヌ県(トルコ語: Kastamonu)はトルコ北部、黒海地方の県。 西から時計回りにスィノプ、チョルム、チャンクル、カラビュック、バルトゥンの各県と接している。県都はカスタモヌ。 面積はおおよそ13,000平方km、人口は2000年の統計でおおよそ32万人。1km²あたりの人口は24.62人。この内6万4千人が県都に暮らしている。 ==歴史== カスタモヌが何時ごろ作られたのかは、正確に知られていない。幾つかの研究では中世にさかのぼることが出来ると考えられている。また、人間が住みだしたころに関しては、10万年前ごろという研究調査もある。 コムネノス王朝の治世に建設されたビザンチンの砦のラテン名であるカストラコムネーノスがカスタモヌの由来と考えられている。 マケドニア王国の衰弱とともに、この地方はポントス王国に併合された。さらに一世紀後にこの王国が陥落し、この地域はローマ帝国に編入され とビテュニアに組み入れられた。この新しい都市国家の中心はポンペイオポリスであり、この県の東部地域にその名残が見られる。 その後11世紀頃になるとこの地域はセルジューク朝の支配下に入り、その後ダニシュメンド朝、ビザンチン帝国、チョバンオール家、ジャンダル侯国と次々支配する国家が変わった。 オスマン帝国皇帝バヤズィト1世が1392年にこの地域を征服したものの、1402年のアンカラの戦いでバヤズィト1世は捕虜となり、翌年死去した。戦いに勝利したティムールはオスマン帝国に征服されたアナトリア各地のベイリク(君侯国)を再興し、この地域もジャンダル侯国の支配下に戻された。この後、オスマン皇帝メフメト2世が1461年にこの地域を取り戻しようやく安定を得ることになる。 オスマン帝国の支配下の間、この地区の境界はイスタンブルまで延びた。皇帝の後継者がこの州の統治を通して経験を得るためにたびたび訪れた。 この後、オスマン帝国が第一次世界大戦で負け、その後のトルコ独立戦争ではカスタモヌは前線への兵力と弾薬供給の重要な役目を担った。兵器はイスタンブルやソヴィエトから海路を使ってイネボル近郊に運び込まれた。希土戦争ではこれに気付いたギリシャ側がイネボルを砲撃している。 トルコ共和国建国の父と呼ばれるアタテュルクは1925年にカスタモヌで「服飾習慣改正」を宣言し、トルコ帽を廃止させた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「カスタモヌ県」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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