|
カストラ(、複数形)およびカストルム(、単数形)とは、古代ローマにおいて軍事防衛拠点または野営地として使用された場所または建設された建物群を指す。この単語はラテン語だけでなくオスク語やウンブリア語(どちらもイタリック語派)にも見られ〔Julius Pokorny, ''Indogermanisches Etymologisches Woerterbuch'', page 586 の kes- (palatal k) の項によると、オスク語の castrous (属格)とウンブリア語の castruo, kastruvuf (主格)はどちらも本来はカストルムと同義で、地所または土地を意味したという。オスクやウンブリアの文化についてはよくわかっていないため、それらの語が軍事的地所を意味したかどうかは不明である。〕、インド・ヨーロッパ祖語からイタリック語派へと伝わったものと見られる。カストラは「大規模な野営地」を意味し、行軍途中などの一時的なものも、砦または要塞のような恒久的なものも指す。一方、ウェゲティウスが記しているようにカステッルム () は「小規模な砦」を意味し、その地域の補給部隊などが使うことが多かった〔 第3巻まで。抄訳になっている部分がある。〕。ギリシア語の文献では、カストラを ''stratopedon''(軍の野営地)、カステッルムを ''phrourion''(砦)と訳している。カストラは一般には「古代ローマの要塞」、「古代ローマの砦」、「古代ローマの野営地」と称されるが、学問的にはカストルム/カストラを「野営地」または「要塞」とし、カステッルムを「砦」とするのが一般的である〔See D. B. Campbell, ''Roman Auxiliary Forts 27 BC-AD 378'', Oxford 2009, page 4.〕。 == 種類 == 最もよく知られている種類のカストラとは、行軍中や戦闘中以外の兵士たちが寝泊りし、その装備や兵站を蓄えておく野営地または軍事都市である。軍団が戦場に赴く際、毎日帰ってこられる適切な場所にカストラを建設しておくのが決まりだった。 このため、行軍の隊列の中にはカストラの建設資材や兵站を運ぶ馬車の一隊も含まれ、兵士の後について行った。 野営地建設は各種専門技術者が属する工兵隊で、''architecti''(技師長)がそれを監督した。また、建設に必要とされる肉体労働には一般兵士が駆りだされた。敵の攻撃にさらされた野営地は、簡単なものでは数時間で撤収できるようになっていた。カストラには ''tertia castra''(3日間の野営地)、''quarta castra''(4日間の野営地)など、その場所で軍団が過ごすであろう期間に対応したいくつもの建設プランが用意されていた。 より恒久的なカストラとして「カストラ・スタティヴァ(常設野営地)」がある。それより恒久性が低いものとして、「カストラ・アエスティヴァ」または「アエスティヴァリア」すなわち「夏季野営地」があり、そこでは兵士たちは「テントに (''sub pellibus'' または ''sub tentoriis'')」寝泊りした。夏は遠征の季節だった。冬になると兵士たちは「カストラ・ヒベルナ」に後退した。こちらには兵舎などもっとしっかりした施設があり、石積みの城壁もあった。 野営地はローマ兵が休息し、兵員を補充する場だった。ケルト人やゲルマン人の軍隊にはこのような仕組みがなかった。したがって彼らは集結して数日後には分散する必要が生じた。その間、無防備な野営地は守備が不十分な場合に攻撃されることがあった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「カストラ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|