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カス・ダマト(Constantine "Cus" D'Amato、1908年1月17日 - 1985年11月4日)は、アメリカ合衆国のボクシングトレーナー及びマネージャー。ニューヨーク州出身。イタリア系アメリカ人。 == 来歴 == 1908年1月17日、アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市ブロンクス区サウス・ブロンクス地区生まれ。 幼少の頃にボクシングと出会い惚れ込むが、街で喧嘩を繰り返す不良少年だった。12歳の時、自身の倍の年の大人と喧嘩をし顔をモノで殴られ片目の視力を失い、プロボクサーへの道を絶たれる。 1933年25歳の時に、マンハッタンのユニオン・スクウェア近く、14丁目にあったグラマシー・ジムの中に「エンパイア・スポーティング・クラブ」を開き、ボクサーのトレーナーを始める。このグラマシー・ジムから、ロッキー・グラジアノやフロイド・パターソン、そしてホセ・トーレスを始めとする多くのボクサー達が生まれた。22歳で既に白髪・色盲であり、そして前述の通り片目という状態であったという。1930年代の中頃にアメリカ軍に入隊し、第二次世界大戦直前までアメリカ軍のボクシングコーチを務めた。 パターソンとトーレスの二人の世界チャンピオンを育てあげ、名伯楽としての世界的な名声を手にした晩年は、半ば隠居生活を送っていたが、1979年に知人の少年院ボクシング担当教官ボビー・スチュワートから、更生プログラムの一つだったボクシングを受けていた13歳のマイク・タイソンを紹介される。タイソンの桁外れの才能に「世界チャンピオンになれる男」と確信するほどに惚れ込む。1983年にタイソンの母親が亡くなり、16歳のタイソンを託される。以後、ダマトはタイソンの法的保護者になる。 タイソンが少年院を出所後、ボクシングの英才教育を施し、タイソンから「オレにとってオヤジ以上の存在だった」「オレのバックボーンであり、初めて出会った心の許せる人間だった」と言われる師弟関係を築いた。1985年11月4日、タイソンが11連勝を飾った直後にマウント・サイナイ病院で肺炎のため77歳で死去。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「カス・ダマト」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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