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ガズヴィーン(; Qazvīn、前近代ペルシア語ではカズウィーン)はイラン・ガズヴィーン州最大の都市で州都。人口は2005年の統計で331,409人。 == 概要と歴史 == ガズヴィーンはイラン・ガズヴィーン州の都市でテヘランの北西約150kmに位置する。標高は海抜約1800m、気候は冷涼乾燥。アルボルズ山脈南麓の岩がちな地帯である。 ガズヴィーンの街はペルシア帝国の歴史上重要な街であり、2000以上の考古学遺跡・歴史的建築をもつ。歴史を通じて重要な文化的中心地であり、現在でも州都を占める。 考古学的調査によれば、ガズヴィーン盆地における都市農業定住地は少なくとも9000年前にさかのぼる。古くは「カスビーンとも綴る「ガズヴィーン」の名は、カスピ海南部にあった古代部族「カス」の名に由来し、カスピ海の名も同様にカスに由来するものである。ガズヴィーンは地理的にはテヘラン、エスファハーン、ペルシア湾方面からカスピ海沿岸およびアナトリアを結ぶ地にあり、いずれの時代にも交通上の要衝であった。東方見聞録ではマルコ・ポーロが中国への往復に使ったとされる。13世紀当時、モンゴルのイルハン朝が治めていた。 今日ガズヴィーンとして知られる街は250年、シャープール2世によって建設された「シャード・シャープール」であると考えられる。これは同地域での緊張にあたって支配強化を目的として建設された要塞である。 ガズヴィーンはイランの歴史において時に中心的重要な役割を果たした地である。644年、アラブの侵入によって陥落。1090年ころにはハサニ・サッバーフがイスマーイール派の分派ニザール派の中心地としてガズヴィーン近郊のアラムート城塞を定めた。都市は13世紀にチンギス・ハンによって破壊されたのち、1548年、サファヴィー朝は1598年にエスファハーンに遷都するまでガズヴィーンを都としている。両世界大戦期にはロシア軍に占領され、さらに1921年にはパフラヴィー朝の成立につながる有名なクーデタの発生地となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ガズヴィーン」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Qazvin 」があります。 スポンサード リンク
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