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カセットビジョンは、エポック社が1981年7月30日に発売したカセット式の家庭用ゲーム機。 ファミリーコンピュータ(ファミコン)が登場するまでの2年間に日本で最も売れた家庭用ゲームハードである。それまでのゲーム機の中では群を抜く40万台〔〔滝田誠一郎『ゲーム大国ニッポン 神々の興亡 2兆円市場の未来を拓いた男たち』青春出版社、2000年、p.84〕から45万台〔オトナファミ2011年1月号特別付録「家庭用ゲーム機完全図鑑-昭和編-」、エンターブレイン、p.10〕〔山崎功『家庭用ゲーム機コンプリートガイド』主婦の友インフォス情報社、2014年、p.24〕を売り上げ、1983年9月時点では日本で一番売れていると評されていた〔。 == 概要 == カセットビジョンは、本体に周辺回路と電源と操作部を搭載し、カートリッジにテレビゲーム用LSI自体を1チップにした1チップマイコンを内蔵し、カートリッジを交換することで違ったゲームを楽しめるというシステムである。本体にCPUが搭載され、ゲームソフトのプログラムとデータはロムカセットに内蔵されたROMで供給するタイプの後年のカセット交換式ゲーム機とは異なる構造となっている。これはCPUとROMを分離しCPUと外部のROMとをバスで接続すると、ノイズが乗ったり誤動作の原因になるという技術的な理由でできなかったためである。後年のゲーム機の主流となったCPUとメモリのROMとRAMを分離して、本体にはCPUとメインRAMを、カートリッジ側にROMを搭載する方式と比べると、本体を安くできる、動作が安定する、それまでに発売したゲームを本体に内蔵したゲーム機の移植が容易にできるなどの長所を持つ。当時の技術ではCPUとは別にROMを置く方がコストが掛かっていた〔。 カセットに搭載しているマイコンチップはNECのD777CというテレビゲームのLSIで、プログラムはROMチップの形で分離されておらずにD777Cに内蔵されている。よってカセットに内蔵されているのはこのチップのみである。単体で演算、入出力、画像処理の全てを1チップで行っている。そのため、何ビットと定義するのは難しく〔カセットビジョンシステム紹介 CLASSIC VIDEOGAME STATION ODDYSEI内〕、4ビットや8ビット、12ビット、場合によっては48ビット〔CLASSIC VIDEOGAME STATION ODYSSEY 内開発者インタビュー より。〕など様々な数値がある。エポック社は『日経産業新聞』の取材に対しては4ビットだと答えている〔〔『日経産業新聞』1983年5月25日付〕。 エポック社はカセットビジョン以前に1975年からゲームが本体に内蔵のゲーム機を出しており、1979年に発売したテレビ野球ゲームはそれまでハードウェアの回路でゲームを実現していたのに対してマイコン(CPU)を採用して、プログラムによって効率的にゲームを開発可能になった。そこで1978年発売のシステム10の後継機として開発に取りかかっていたスーパー10は完成しつつあったが開発が破棄されて、カセット式のゲーム機の開発に切り替えられる。それがカセットビジョンである。設計はNECが担当した。同じマイコンを使うのなら、周辺回路は同一であり、それなら本体は共通化してゲームはカセットで供給する方が低コスト・低価格化に繋がるという発想で、堀江正幸ら3人の担当者によって開発された〔滝田誠一郎『ゲーム大国ニッポン 神々の興亡 2兆円市場の未来を拓いた男たち』青春出版社、2000年、pp.85-89〕〔先駆者に聞く創世の時代 Game Fronties 株式会社エポック社堀江正幸氏 テレビテニスとシステム10の時代 CLASSIC VIDEOGAME STATION ODYSSEY内〕〔先駆者に聞く創世の時代 Game Fronties 株式会社エポック社堀江正幸氏 これが1チップマイコンテレビゲームだ CLASSIC VIDEOGAME STATION ODYSSEY内〕。 カセットビジョン以前にも日本国内で2万円以下という比較的安価なカセット式テレビゲームはいくつか存在した〔が、当時はいずれも大きな普及には至らなかった。カセットビジョン当時の主な競合機としては、アタリVCS(販売:エポック社、1979年)〔やマテル・インテレビジョン(販売:バンダイ、1982年)などの海外製輸入ゲーム機が存在した。アメリカでは本体にCPUを搭載したゲーム機が既に主流であり、これらのゲーム機も本体にCPUを内蔵していたが、アメリカからの輸入品ということもあって非常に高価だった。またカセットビジョンのソフトは数こそ少なかったものの、エポック社の既存のゲームを移植するなど当時よく知られていた人気ゲームを揃えていた。結果的にカセットビジョンは1981年から1983年にかけての日本の据置型ゲーム機市場をほぼ独占した〔。 しかし1983年になると価格的優位性については薄れはじめた。アタリは子会社から日本向けモデルAtari2800を2万円台で発売したほか、日本国内メーカー各社も約1万円から2万円台程度のカセット式テレビゲーム機を相次いで発売し、どの機種もカセットビジョン(Jr.)より性能が高かった〔。エポック社も7月にカセットビジョンJr.を発売することでどの機種よりも本体価格を下げたものの、結果的に同時期に発売された任天堂のファミリーコンピュータに急速にシェアを奪われた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「カセットビジョン」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Cassette Vision 」があります。 スポンサード リンク
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