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カタコンブ・ド・パリ : ミニ英和和英辞書
カタコンブ・ド・パリ
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


カタコンブ・ド・パリ : ウィキペディア日本語版
カタコンブ・ド・パリ

カタコンブ・ド・パリCatacombes de Paris)は、フランスパリの地下納骨堂(カタコンベ)。 旧市街の城門(アンフェール門、「地獄門」、現在のダンフェール=ロシュロー広場ダンフェール=ロシュロー駅の近く)の南に位置する。地下納骨堂にはおよそ600万人の遺骨が納められており、パリの地下採石場の名残であるトンネルと改造された洞窟が遺骨で埋められている。18世紀後半に一般公開され、19世紀初頭から地下墓地は小規模な観光名所となった。1874年以降は定期的に公開されている。内部を荒らされる事件が続いたため、2009年9月に一般公開が中止され、同年の12月に再公開された。
カタコンブ・ド・パリは、パリ市内にあった大規模墓地を閉鎖した際に発掘された遺骨の単なる移転場所であり、当初から実際に死者の埋葬に使われたことはない。にも関わらずカタコンブという名称を採用しているが、これは古代ローマの地下墓地から類推しての名称である。カタコンブの正式名称はロシュエール・ミュニシパル(''l'Ossuaire Municipal'')、すなわち市営納骨堂である。
全長はおよそ1.7km、地下20mの場所にあり、2008年のカタコンブ・ド・パリ訪問者数は約24万人であった〔Le Parisien - ''Les catacombes enfin rouvertes au public'' , article du 22 décembre 2009〕。パリの博物館の1つであり、2002年5月よりカルナヴァレ博物館が管理を行っている〔 Ville de Paris - Rapport d'audit du musée Carnavalet , 52〕〔Site de la mairie de Paris - Fiche de visite des Catacombes 〕。パリ・メトロの最寄り駅はメトロのダンフェール=ロシュロー駅。RER B線の最寄はダンフェール=ロシュロー駅
==歴史==

===背景===

ローマ時代以降、パリは都市郊外に死者を埋葬してきたが、キリスト教伝来でその習慣は変えられた。教会の下や周囲にある聖別された土地の地下に埋葬を行うようになった。10世紀から、パリの教区墓地の多くが都市の内側につくられ、最終的にはそれら墓地は都市人口が密集する場所となり、拡張が困難となり過密になった。12世紀初め、この状況を改善しようとして、教会に埋葬料を払えるほど裕福でない人々のための中央集団埋葬墓地が開設された。これがサン・イノサン墓地である。
サン・イノサン墓地が歴史上に現れるのは5世紀、メロヴィング朝の信仰の地であったノートルダム・デ・ボワ教会の周囲である。885年から886年のヴァイキング襲来で破壊されたとみられ、11世紀にはサン・オポルテューヌ教会が替わってこの地にあった。したがって、サン・オポルテューヌ教会は右岸の教区から死者を受け取り埋葬を行っていた。この墓地には独自の教会堂があったが、1130年ルイ6世が大規模な教会へと改築し、ヘロデ大王の命令でユダヤ人の幼児が殺害された幼児虐殺にちなみ、サン・イノサン教会と名付けた。墓地もこの教会名にちなむ。1137年にはルイ6世の命令でパリの市場がこの近くに集約され中央市場(レ・アル・ド・パリ)となり、この地域は重要な地域となった。
サン=ドニ通り、フェロンヌリー通り、ランジュリー通り、ベルジェ通りに囲まれたこの墓地は、約1300年間にわたってパリ市内の22教区から数十世代にわたるパリ市民の遺体、そしてオテル・デューや死体安置所からの遺体を受け入れていた。小さな田舎の墓地は、次第にパリ最大の墓地となった。そして徐々に建物に囲まれ、パリで最も賑やかな地区の1つに含まれていった。戦争、疫病、飢餓によって、この小さな空間に数千の死体が埋められた。よって死体が有機的に分解されるのはますます困難になった。集団墓地は10フィート以上の深さに達した。18世紀の終わりには、集団墓地は通りよりも2m以上高くなっていた。これが安全上の問題を引き起こしたと、長期にわたって報告されている〔Patrick Saletta, ''À la découverte des souterrains de Paris'', 96〕。
いっぱいになった墓地の一区画を発掘したところ、それはもうひとつ別の区画を覆っていることがわかった。科学的に腐敗を早める目的でしばしば石灰をまかれた上で、土中に直接遺体は埋められていた。有機物が腐敗する過程で生ずる残留物が、当時の主要な水の供給源であった井戸に流入する状況をつくっていた。
17世紀、サン・イノサン教会周辺の衛生状態は耐え難いものとなっていた。それはパリで最も人気のある墓地、そして教会と教区の最大の収入源として、聖職者たちは墓地が満杯でも埋葬を続けていたためである。そのときまで、墓地は4つの区画全てが、墓地を囲むかたちの巨大な大量埋葬地を備えていた。墓地から掘り出された死者の骨には、骨に付いていた肉全てを分解するのに十分な時間が必要だったからである。一度1区画を空にしてから、墓地は再び使用されたため、土は既に人の亡骸を分解するには飽和状態にあった。
常に数千体の遺体を有機分解させることは、疫病の広がりを促進させることになった。1554年以降、パリ大学医学部の医師たちは、墓地の存在でもたらされる疫病の危険性を訴えたが無駄であった。1737年、王立科学アカデミーに所属する医師たちは分析を行い、単に長年にわたって蓄積されてきたのではない住民の苦情を確認している。最後の墓堀人であったフランソワ・プルランは、30年間で9万体をサン・イノサン墓地に埋葬したと主張している〔Collectif, ''Atlas du Paris souterrain'', 110〕。
18世紀の随筆家はこの地区のことを、「ワインは一週間たたないうちに酸っぱくなり、食べ物が数日で駄目になる。井戸水は腐敗した物質で汚染されており、消費するにはますます不向きである。」と記している。「死者を埋葬する論理的でない方法が人々を健康にするのか」と宗教当局を非難するヴォルテールまで登場する。
1765年、パリ高等法院はパリ市内での埋葬を禁止した。ローマの伝統が復活し、8箇所の墓地が首都の外につくられた。墓地の使用を制限する一連の効果のない法令は、わずかしか状況を改善できなかった。1780年初め、興味深い現象がサン・イノサン墓地の周囲のワイン貯蔵庫で起きた。死体が腐る過程で生じる気体がとても多量なので、墓地の壁を通り抜けてワイン貯蔵庫に入り込み、獣脂製ロウソクの灯を消してしまうというのである。汚れを取り去るため、墓地に隣接する地区のワイン貯蔵庫で地下室の壁に石灰をまくことが決められた。しかし同年の5月30日、重大な事件が起きた。墓地に隣接するランジュリー通りのワイン貯蔵庫の地下室の壁が、コミューンの墓穴に納められた何千もの死体の圧力で倒壊したのである〔Patrick Saletta, ''À la découverte des souterrains de Paris'', 97〕。また、経済的な理由から墓地閉鎖の選択が加速した。墓地と接しているレ・アル地区には市場がなかった。これが首都の経済的中心地を再開発し、日夜非常に混雑する地区の流れを改善する機会となった〔。
1785年11月9日、国務院は、遺骨の除去をともなうサン・イノサン墓地閉鎖、そして地域の再開発を決定した。
19世紀初頭、都市の中心地区外に新たな墓地が建設された。北のモンマルトル墓地、東のペール・ラシェーズ墓地、西のパッシー墓地である。のち、南部にモンパルナス墓地が加わった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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