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カチウン(Qači'un, 生没年不詳)はチンギス・カンの三弟で、モンゴル帝国の皇族である。イェスゲイ・バアトルとコンギラト部族オルクヌウト氏族出身のホエルンとの三男で、他の同母兄弟にはジョチ・カサルとテムゲ・オッチギンがいる。『元朝秘史』『元史』などの漢語資料では、中合赤温額勒赤 Qači'un elči 、合赤温、哈赤溫大王。『集史』などのペルシア語表記では قاچيؤن Qāchī'un と書かれる。『元朝秘史』によると、チンギスより4歳年下。ジョチ・カサルよりも2歳年少、テムゲ・オッチギンよりは2歳年長であったという。 == カチウン王家の展開 == おそらく早世したためか、彼の活躍については資料上に殆ど知られておらず、モンゴル帝国成立後、一族に行われた分封(ウルス)を実際に受けたのは子の(阿勒赤歹、濟南王 按只吉歹、アルチダイ)であった。『集史』「イェスゲイ・バハードゥル紀」によると、1207年から1211年頃にかけてチンギス・カンは母ホエルンをはじめ諸子、諸弟などの親族たちにも所領(ウルス)の分封が行っているが、その際に、イルチダイにはナイマン、ウリヤンカト、タタル部の諸部族からなる三千が分与されたという。杉山正明の研究などによると、いわゆる東方三王家(チンギス・ハーンの弟ジョチ・カサル、カチウン、テムゲ・オッチギンの家系)の諸ウルスはチンギスの大興安嶺の西麓に各々設置されたが、そのうち北端にはアルグン川流域周辺をジョチ・カサル家が、中部のハルハ川流域周辺をテムゲ・オッチギン家が、そして、南端のブユル・ノール南方、ウルクゥイ・カラカルジト流域に設置されたと考えられる。 子孫は東方三王家(チンギス・カンの弟ジョチ・カサル、カチウン、テムゲ・オッチギンの家系)の一角をなし、クビライの元朝成立にも貢献した。イルチダイはオゴデイ、モンケ、クビライの時代に活躍したが、クビライの即位に際しカチウン家は他の東方三王家とともにこの即位に尽力している。 『集史』「イェスゲイ・バハードゥル紀」によると、イルチダイの次に当主位を継いだのはイルチダイの息子チャクラ(察忽剌大王)であったという。第三代当主はその息子フラウル(忽列虎兒王、ウクラクル。『元史』ではイルチダイの息子のひとりとする)であったが、1260年夏の上都開平府のクリルタイでは、東方三王家の盟主であるテムゲ・オッチギン家の当主タガチャル、ジョチ・カサル家のイェスンゲとともにイルチダイの息子(哈丹大王)という王族が出席しており、クビライの元朝成立にも貢献した。翌1261年にアリクブケ軍と開平府に近いシムトゥ・ノールでの会戦ではカチウン家の当主フラクルはナリン・カダアンをともないクビライの左翼軍でテムゲ・オッチギン家のタガチャルやベルグテイ家の当主ジャウドゥらと奮戦している。 しかし、1287年のテムゲ・オッチギン家の当主ナヤンがクビライに叛乱を起こした際、カチウン家も他の東方三王家やコルゲン家の王族たちとともに挙兵した。(ナヤンの乱)この時のカチウン家の当主は、ナリン・カダアンの子、隴王 忽剌出の子、濟南王 勝納哈兒(シンナカル)であったが、ナヤンはクビライの親征軍に敗北して誅殺された。これに伴いクビライは東方三王家の当主たちを全て挿げ替え、カチウン家もシンナカルは家督を廃されチャクラの息子らしいエジル(濟南王也只里/也里只)が擁立された。ところが、この処置に不満をもったナリン・カダアンは、子息のラオデイを伴いナヤンが敗死した後もなお現在の中国東北部全域を転戦して抵抗を続けた。しかし、各地で敗走を重ね、皇孫テムル率いる討伐軍に敗北して1290年に入って高麗王国へも侵入し抵抗を続けたものの、1291年に鴨緑江での敗北によってラオデイは逃走、1292年にナリン・カダアンも敗死した。 1302年12月10日に、クビライを継いだ成宗皇帝テムルがカラコルムで催したカイドゥに勝利した後の祝宴でジョチ・カサル家の当主バブシャ(八不沙)らとともにカチウン家の当主エジルも列席している。 ナリン・カダアン、ラオデイの反抗は続いたものの、クビライ政権側はナヤン死後の当主位改廃後に西方のカイドゥ対策を鑑みて東方三王家との和解、事態の収拾、関係の改善を進めており、従来のウルスも安堵されたと考えられている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「カチウン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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