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カッシオドルス : ウィキペディア日本語版
カッシオドルス

フラウィウス・マグヌス・アウレリウス・カッシオドルス・セナトル(Flavius Magnus Aurelius Cassiodorus Senator, 485年頃 - 585年頃)は、一般にカッシオドルスとして知られるローマ人の政治家、著述家である。東ゴート王国テオドリック大王に仕えた。セナトル(Senator)は名前の一部であり、役職ではない。
==略歴==
カッシオドルスは南イタリアカタンザーロに近いシレチウムで生まれた。彼の経歴は、シチリアを治めていた父の下で参議を務めたことに始まる。彼はまたごく若い頃から法学の研究で有名であった。507年から511年頃にクァエストル、514年にコンスル、そしてテオドリックの下で、それから大王の後を継いだ若きアタラリックの下では宰相と重職を歴任しながら、カッシオドルスは政治問題についてのおびただしい記録と信書を残している。ゴートの立法府で彼のふるった筆は、近代の読者にとってもきわめて整い、巧みなものに見え、注目に値すると考えられる。ラヴェンナ時代の彼が常にそうであったように、重要な政治文書はしばしば彼に起草が任されていたほどであった。イタリアの行政長官に任じられたときが彼の全盛期であり、東ゴートの市政をよく治め、最高の名誉でもってその職歴のしめくくりとした。カッシオドルスは教皇アガペトゥス1世とも手をとりあい、ローマでのキリスト教教育を助けるために、ギリシャ語とラテン語の文書をおさめた図書館をつくった。
*ジェイムズ・オドネルはこう記している。
ボエティウスの死について言及した公文書は、カッシオドルスが精選したものには存在しない。
アタラリックは534年の初め頃に亡くなり、その後のカッシオドルスの表舞台での活躍は、ビザンチン帝国の征服と、東ゴート王国内での陰謀とも関わりをもつことになる。カッシオドルスの後継者はコンスタンティノープルから任命されているし、彼の最後の文書はウィティギスの名を冠するものだった。
537年から538年頃、彼はイタリアからコンスタンティノープルに移った。そこでおよそ20年間を過ごし、宗教的な探求に身を置いた。また彼はユスティニアヌス帝のもとでクエストルをしていた宗教家のユニリウスと出会っている。コンスタンティノープルへの旅行は彼の宗教的知識の増進につながった。
カッシオドルスは6世紀の大分裂の原因となっていた、文化的な断絶を埋めることも試みている。すなわち東と西、ギリシャ文化とラテン文化、ローマ人とゴート人、カトリックの人々と彼らを支配していたアリウス派の王との間の橋渡しである。西暦を考案したディオニュシウス・エクシグウスについて、カッシオドルスは「綱要 Institutions」のなかで好意的に語っている。
引退後は、イオニア海辺の彼の家族の土地に、ウィウァリウムの修道院をつくり、著書も宗教的なものになっていく。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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