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カティンの森事件(カティンのもりじけん、、)は、第二次世界大戦中にソ連のグニェズドヴォ近郊の森で約22,000人〔 〕のポーランド軍将校、国境警備隊員、警官、一般官吏、聖職者が内務人民委員部(NKVD)によって銃殺された事件。「カティンの森の虐殺」などとも表記する。 NKVD長官ベリヤが射殺を提案し、スターリンと政治局の決定で実行された〔「カチンの森 戦後70年歴史を歩く」『読売新聞』2015年11月13日付夕刊。〕。 「カティン(カチンとも。)」は現場近くの地名で、事件とは直接関係ないものの、覚えやすい名前であったためナチス・ドイツが名称に利用した。 == 経緯 == === ポーランド人捕虜問題 === 1939年9月、ナチス・ドイツとソ連の両国によってポーランドは攻撃され、全土は占領下に置かれた。 武装解除されたポーランド軍人や民間人は両軍の捕虜になり、ソ連軍に降伏した将兵は強制収容所(ラーゲリ)へ送られた。 ポーランド政府はパリへ脱出しポーランド亡命政府を結成、翌1940年にアンジェへ移転したがフランスの降伏でヴィシー政権が作られると、更にロンドンへ移された。 1940年9月17日のソ連軍機関紙『赤い星』に掲載されたポーランド軍捕虜の数は将官10人、大佐52人、中佐72人、その他の上級将校5,131人、下級士官4,096人、兵士181,223人となった。その後、ソ連軍は将官12人、将校8,000人をふくむ230,672人と訂正した〔児島襄 1992 〕。 ポーランド亡命政府は将校1万人を含む25万人の軍人と民間人が消息不明であるとして、何度もソ連側に問い合わせを行っていたが満足な回答は得られなかった。 1941年の独ソ戦勃発後、対ドイツで利害が一致したポーランドとソ連はシコルスキー=マイスキー協定(英語版)を結び、ソ連国内のポーランド人捕虜はすべて釈放され、ポーランド人部隊が編成されることになった。 しかし集結した兵士は将校1,800人、下士官と兵士27,000人に過ぎず、行方不明となった捕虜の10分の1にも満たなかった。 亡命政府は捕虜の釈放を正式に要求したが、ソ連側はすべてが釈放されたが事務や輸送の問題で滞っていると回答した。 12月3日には亡命政府首相ヴワディスワフ・シコルスキがヨシフ・スターリンと会談したが、スターリンは「たしかに釈放された」と回答している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「カティンの森事件」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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