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世界平和記念聖堂 ''Memorial Cathedral for World Peace'' 世界平和記念聖堂(せかいへいわきねんせいどう)は、広島県広島市中区にある、キリスト教(カトリック)の聖堂。カトリック幟町教会(カトリックのぼりちょうきょうかい)の聖堂であり、カトリック広島司教区の司教座聖堂となっている。広島世界平和記念聖堂(ひろしませかいへいわきねんせいどう)とも呼ばれる。 建築家村野藤吾設計によるRC造、三廊式バシリカの教会堂で、1950年(昭和25年)8月6日に着工され〔正確には、1950年(昭和25年)8月6日定礎式、1950年(昭和25年)10月8日着工である。石丸紀興1988、2頁。〕、1954年(昭和29年)8月6日に竣工した。2006年(平成18年)7月5日には国の重要文化財に指定されている〔文化遺産オンライン 世界平和記念聖堂 文化庁〕〔広島県の文化財 - 世界平和記念聖堂 広島県教育委員会〕。 == 概要 == 歴史的に初めて広島にキリスト教の教会が建てられたのは、まだ毛利氏が広島に本拠を構えていた1599年の頃だとされている。その後の長い禁教の時代を経て明治以降に布教が再開されるようになると、1882年(明治15年)に幟町に教会が設けられた。一時期、1885年(明治18年)には山口町に、また1889年(明治22年)には研屋町に移転した期間を挟んで、1902年(明治35年)には再び幟町にもどり、現在地の幟町148番地に落ち着いた。第二次世界大戦の終りまで広島カトリック教会は「幟町天主公教会」と呼ばれ、この地にあったのは明治時代に建てられた古い和風(日本様式)の教会堂であった〔石丸紀興1988、11-14頁。〕。 その教会が1945年(昭和20年)8月6日の原子爆弾投下によって倒壊・焼失してしまうと、その時直接被爆したドイツ人主任司祭フーゴ・ラッサール(昭和23年10月25日、日本に帰化し愛宮真備〈えのみや まきび〉と改名)は、この地に原爆犠牲者を弔うだけでなく、全世界の友情と世界平和を祈念するための聖堂をあらたに建設することを思い立った〔石丸紀興1988、32-39頁。〕。このラッサール神父の発願は当時のローマ教皇ピオ12世の支持を得たあと、カトリック信者をはじめとする真に恒久平和を願う人々の共感をも呼び起こし、それが世界各地から届けられる多大な浄財や寄贈品の形となって、世界平和記念聖堂は建設された。 聖堂は鉄筋コンクリート造3階建、地下1階、三廊式のバシリカ教会堂である。地階部分は地下聖堂になっている。内陣ドームと同じ花弁型の丸屋根が特徴的な小聖堂と洗礼堂が付属し、鐘楼の高さは塔部分で45m、十字架を含めると56.4mにも達する。鉄筋コンクリート打ち放しの柱梁間に、中空のコンクリートブロックを充填し、鉄筋で柱梁と一体化し耐力壁としている。外装部分は、被爆地広島の川砂を使った灰色のコンクリートレンガを現場で制作して、それを積み上げた。内陣ドームの上には、地球儀を象った球の上に鳳凰(フェニックス)がちょこんと乗っている〔石丸紀興1988、166、200頁。〕。 表現派を代表する実力者村野藤吾の第二次世界大戦後の原点となる作品であり、戦前のキャリアを含めても会心作のひとつである〔丹下健三・藤森照信 2002、136頁。〕。2003年にはDOCOMOMO JAPAN選定 日本におけるモダン・ムーブメントの建築に選定。2006年(平成18年)7月5日、丹下健三設計の広島平和記念資料館(1955年、広島市中区中島町)とともに、第二次世界大戦後の建築としては初めて日本国の重要文化財(建造物)に指定された。 ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が1981年(昭和56年)2月25日に広島を訪れた際に、この聖堂にも立ち寄っている。それにより、世界平和記念聖堂は日本国内でローマ教皇訪問の栄誉を受けた数少ないカテドラル(司教座聖堂)ともなった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「世界平和記念聖堂」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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