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カトル・ブラの戦い (カトル・ブラのたたかい、仏:、英:''Battle of Quatre Bras''、蘭:''Slag bij Quatre-Bras'' )は、1815年6月16日にベルギー中部のカトル・ブラ付近で行われた戦い。ウェリントン率いるイギリス・オランダ連合軍が、ミシェル・ネイ率いるフランス軍を撃退した。ナポレオン最後の戦いとなったワーテルローの戦いの前哨戦のひとつである。 == 概要 == 1815年2月、エルバ島で監視下に置かれていたナポレオンは島を脱出し、翌3月、パリに帰還、フランス皇帝に復位した。ナポレオンの再挙を知った列国は第七次対仏大同盟を結成し、フランス国境に大兵力を集結させた。ベルギー方面にはイギリス・オランダ連合軍とプロイセン軍、その南には別のプロイセン軍を主力とした北ドイツ軍団、ライン正面にはオーストリア軍を主力としたライン方面軍、北イタリア方面にはオーストリア軍がそれぞれ展開し、さらにライン正面に向けてロシア軍が東から接近しつつあった。同盟側の作戦行動にはまだ時間がかかると判断したナポレオンは、同盟軍の機先を制することとした。6月11日、ベルギー方面にいるウェリントンのイギリス・オランダ連合軍とブリュッヘルのプロイセン軍を最初に撃破すべく、ナポレオンは12万人の兵を率いてパリを出撃した。 6月14日、フランス軍はブリュッセルの南30キロメートルのシャルルロワ付近に集結した。シャルルロワはイギリス・オランダ連合軍とプロイセン軍の中間に位置し、どちらにも対応できる地であった。ナポレオンは、両軍が合流する前に各個撃破を狙った。フランス軍左翼を率いるネイは、ナポレオンから、北上して要地カトル・ブラの十字路をすみやかに確保するとともに、確保後の状況に応じて東に旋回し、リニー方面にいるプロイセン軍の側背を突くように命じられた。ナポレオン自身はリニー方面にいるプロイセン軍攻撃に向かった。6月16日、ネイはカトル・ブラを守るオラニエ公ウィレムの小部隊と対峙した。しかし、ネイの躊躇により攻撃が遅れ、守備側に兵力を増強する猶予を与えてしまった。増援のイギリス軍部隊とともにカトル・ブラに急行したウェリントンが守備の指揮を執るとともに、その後も増援部隊が続々と到着し、兵力は最終的に36,000にまで膨れ上がった。フランス軍は、逆襲に転じたイギリス・オランダ連合軍に押し戻されてしまった。途中、リニーの戦いでナポレオン本隊が有利に戦いを進め、プロイセン軍の側背を攻撃する絶好機が訪れたが、カトル・ブラで手間取っていたネイは部隊を動かすことができなかった。結局、フランス軍はカトル・ブラの奪取に失敗した。ウェリントンは撃退に成功したものの、リニーのプロイセン軍が敗走したことを知ってカトル・ブラを放棄し、北方に兵を退いてワーテルローに防御陣地を敷いた。ナポレオンはグルーシーにプロイセン軍を追撃させるとともに、自身はネイと合流した。 戦いは、カトル・ブラを守り切ったイギリス・オランダ連合軍の勝利となった。しかし、ネイに拘束されたため、リニーで苦戦していたプロイセン軍の救援に向かうことができなかった。ウェリントンは、プロイセン軍の敗北により危険な状態となったカトル・ブラを放棄せざるをえなくなった。一方、ネイがイギリス・オランダ連合軍に手間取りリニーの戦いに参戦できなかったことにより、ナポレオンはプロイセン軍を撃滅する決定機を逸することとなった〔軍事評論家松村劭は「ネー軍が適時に駆けつけていたらブリュッヘル軍は潰滅していたであろう。そしてナポレオンはカートル・ブラのウェリントンに襲い掛かり蹂躙していたであろう。それはまことに重要な歴史の「もし」の数時間であった。」と述べている。 松村劭 『ナポレオン戦争全史』 原書房、2006年、p.198.〕。ナポレオンは猛攻によりプロイセン軍を退却させることには成功したが、撃滅するには至らなかった。このプロイセン軍は、6月18日のワーテルローの決戦において、ナポレオンの敗北に決定的な役割を果たすことになる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「カトル・ブラの戦い」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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