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カプスチン・ヤール射場 : ミニ英和和英辞書
カプスチン・ヤール射場[ば]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
射場 : [しゃじょう]
 【名詞】 1. rifle or shooting range 2. archery range or ground
: [ば]
 【名詞】 1. place 2. field (physics) 

カプスチン・ヤール射場 ( リダイレクト:カプースチン・ヤール ) : ウィキペディア日本語版
カプースチン・ヤール[ば]

カプースチン・ヤール (カプスチン・ヤール、, Kapustin Yar)はロシア南部のアストラハン州北西部にある、ロケットミサイルの開発基地・打ち上げ基地ヴォルゴグラード市とアストラハン市の中間に位置する。その中心となるのは閉鎖都市ズナメンスク(, Znamensk, 1992年までの名称は「カプースチン・ヤール1」)であり、その近くには名の由来となったカプースチン・ヤールの村もある。試験場の広さは650平方㎞におよび、その大部分はロシア領内にあるが、一部はカザフスタンアティラウ州西カザフスタン州にまたがる。
ソビエト連邦時代の1946年より開発が始められ、建設当初は敗戦国ドイツからの技術、資材、科学的知識も動員された。ソ連軍および後のロシア軍の試験用ロケット、人工衛星観測ロケットの打ち上げの多くがここで実施されているほか、1957年から1961年にかけては上空で核実験も行われている。
現在の正式名称は、。'', Kapustin Yar)はロシア南部のアストラハン州北西部にある、ロケットミサイルの開発基地・打ち上げ基地ヴォルゴグラード市とアストラハン市の中間に位置する。その中心となるのは閉鎖都市ズナメンスク(, Znamensk, 1992年までの名称は「カプースチン・ヤール1」)であり、その近くには名の由来となったカプースチン・ヤールの村もある。試験場の広さは650平方㎞におよび、その大部分はロシア領内にあるが、一部はカザフスタンアティラウ州西カザフスタン州にまたがる。
ソビエト連邦時代の1946年より開発が始められ、建設当初は敗戦国ドイツからの技術、資材、科学的知識も動員された。ソ連軍および後のロシア軍の試験用ロケット、人工衛星観測ロケットの打ち上げの多くがここで実施されているほか、1957年から1961年にかけては上空で核実験も行われている。
現在の正式名称は、。
== 歴史 ==
1946年5月13日にソ連政府が布告した「ジェット推進兵器について」(On Questions of Jet Propelled Weapons)に基づき弾道ミサイルの試験場の選定が始まり、アストラハン州北端のカプースチン・ヤール村の周辺の荒野が第4ミサイル試験場「カプースチン・ヤール」となることが決定した。ソ連軍の少将ヴァシーリー・ヴォズニュク(1946年から1973年まで試験場の長も務めた)により建設が指揮され、1947年10月18日には最初のロケット打ち上げが行われた。この時のロケットは、ソ連がナチス・ドイツから鹵獲したA-4ロケット(V2ロケット)のうちの1機であった。1948年末よりセルゲイ・コロリョフのチームによる打ち上げ施設の建設も始まり、やがて多くのミサイルやロケットがここで試験された〔 Kapustin Yar | RussianSpaceWeb.com 〕。
最初はテントなどが立ち並んでいた試験場は、やがて街へと成長し、1962年には試験関係者や科学者とその家族の街である閉鎖都市カプースチン・ヤール1が市となっているが、当時は地図に一切記載されなかった。さらに1966年以降(1988年から1998年の中断を挟む)は宇宙船の打ち上げを行う宇宙基地の機能も果たすようになった。
西側各国は、カプースチン・ヤールの重要性を、ソ連抑留から帰国したドイツ人科学者からの聞き取り調査や偵察機による偵察で知るようになった。西側によるカプースチン・ヤール上空へのスパイ飛行は、1953年中頃にイギリス空軍の高高度偵察機キャンベラにより実施されたとみられる。ソ連側はMiG-15で迎撃したものの高高度を飛ぶキャンベラに手出しできなかったが、カプースチン・ヤール上空で撮影に入ったキャンベラをMiG-15が射撃しキャンベラは軽く損傷したという。イギリス政府は偵察飛行の存在を否定している〔Lashmar, Paul: "Spy Flights of the Cold War" Sutton Publishing 1998 ISBN 0 7509 1970 1 pp 76-83.〕〔 Pedlow, Gregory W and Welzenbach, Donald E: "The CIA and the U-2 Program, 1954-1974 " History Staff Centre for the Study of Intelligence, Central Intelligence Agency p23.〕。カプースチン・ヤールは閉鎖された地域であり、新しい技術の秘密の実験が行われてきたことから、ソ連時代はたびたびUFOの目撃も噂され、「ロシアのロズウェル」の異名もとってきた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「カプースチン・ヤール」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Kapustin Yar 」があります。




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