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カプツィーナー納骨堂 (ドイツ語:Kapuzinergruft)は、オーストリア、ウィーン、カプツィーナー教会の地下にある納骨堂。近くにはホーフブルク宮殿がある。帝室納骨堂、皇帝納骨堂(Kaisergruft)とも呼ばれ、ハプスブルク家の神聖ローマ帝国の皇帝・皇后(オーストリア皇帝・皇后も含む)や、その子孫らが埋葬されている。ウィーンの観光名所の一つとなっている。 ==概要== 1617年、神聖ローマ皇帝マティアスの皇后アンナが、カプチン会の修道生活と、自分たち夫妻の墓所としての構想を思いたち、ウィーンのホーフブルク城に近接して教会・修道院と墓所を建てることにした。アンナは1617年11月10日に自らの意志で資金を修道院建設のために提供し、そのちょうど1年後に死去したことから資金はすぐに役立てられた。マティアス帝は、皇后の死から1年後に死去した。 1622年9月8日、皇帝フェルディナント2世出席のもとで、基礎となる石が置かれた。三十年戦争の混乱に起因する工事の遅滞の後、教会が天使の聖母マリアへ1632年7月25日に献堂された。翌年の復活祭には、皇帝マティアスと皇后アンナの亡骸の入った簡素なサルコファガスが、盛大な式典のもとで移された。マティアス帝夫妻の眠る場所は、現在、創設者納骨堂(Gründergruft)と呼ばれている。以後、納骨堂の拡張や改修がなされてきた。 現在、138体の亡骸が納められた棺(ハプスブルク家、ハプスブルク=ロートリンゲン家の人々)の他、心臓の入った壷、4人分の焼却された遺灰、これらが相互に連結された帝室納骨堂10箇所の1つに安置されている。簡素なものから華美なロココ様式まで、103の金属製サルコファガスと5つの心臓壷が見られる。これらには12人の皇帝、18人の皇后が含まれる。 他家出身の32人の配偶者が、ここを永眠の地としている。帝室納骨堂に納められているその他の亡骸は皆、オーストリア大公・オーストリア大公女の称号を持って生まれた者である。 この納骨堂に埋葬された中で最も年齢が高かったのは、98歳であったオットー・フォン・ハプスブルクである。幾人かは出生後まもなく死んでおり、埋葬された者の25%以上は5歳未満で亡くなっていた。 今日まで、カプチン会修道士12人の幾人かは、聖職者の仕事と並行し地下納骨堂の保護・管理人という慣例的な役割を続けている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「カプツィーナー納骨堂」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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