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カラーン・ミナレットとは、ウズベキスタンの都市ブハラに建てられたミナレット(塔)。 ウズベキスタンの世界遺産であるブハラ歴史地区の構成物件の一つ。カラーン・ミナレット、塔と接続されたカラーン・モスク、塔の真下のミル・アラブ・メドレセは「パイ・ミナル(ミナレットの麓)」と総称される〔『シルクロード事典』、274-275頁〕。 遠方からも視認できるカラーン・ミナレットはブハラのシンボルであり、ブハラの支配者の権威の象徴にもなっていた〔堀川「カラーン・ミナレット」『中央ユーラシアを知る事典』、147-148頁〕。 == 歴史 == かつてはカラーン・ミナレットの上に明かりが灯され、砂漠を渡る隊商の道標になっていたと伝えられている〔前嶋『シルクロードの秘密国』、108頁〕。また、戦争の際には敵を発見するための見張り台としても使われていた〔Michell, G. 1995. ''Architecture of the Islamic World''. London: Thames and Hudson, 259〕。カラーン・ミナレットは戦争や地震によって何度か破損したが、その都度修復作業が行われた。 1121年にカラハン朝の君主アルスラン・ハンによってブハラにカラーン・モスクが建立され、モスクの前のミナレットの建設が進められた。しかし、おそらくは地盤の柔らかさを計算に入れていなかったために塔は完成の直前に倒壊し、基部を強固にした上で塔の建設が再開され、1127年に現在のカラーン・ミナレットが完成する〔The Kalyan Minaret, Bukhara (2016年1月閲覧)〕。1220年のモンゴル帝国のブハラ占領の際にカラーン・モスクが破壊されたと考えられているが、ミナレットはモンゴルの攻撃の後も姿を留める〔〔前嶋『シルクロードの秘密国』、130,133頁〕。塔に感動したチンギス・カンが、ブハラ市内を破壊する周囲の部下に塔の破壊を止めるように命令したという伝承が残っている。 19世紀後半までは罪人を生きたまま袋に入れて塔の上から投げ落とす刑が行われていたため、カラーン・ミナレットは「死の塔」の別名でも知られるようになった〔〔関『ウズベキスタン シルクロードのオアシス』、68-69頁〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「カラーン・ミナレット」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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