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カルトジオ会、カルトゥジオ会 はカトリック教会に属す修道会で、ケルンのブルーノを創始者として11世紀フランスに発生した、21世紀においても現役の修道会である。日本語表記では左記のように揺れがあるが、本項ではバチカン放送局の日本語版の表記にならいカルトジオ会で統一する。 カルトジオ会の修道士はシャルトリュー (Chartreux)、英語ではカルトジアン (Cartusian)、イタリア語ではチェルトジノ (Certosino)と呼ばれる。 == 歴史 == 1081年ケルンのブルーノはランスでそれまでに築いた地位を捨て、修道生活を追い求めて遍歴をはじめた。後にシトー会の創設者となるモレームのロベールが院長をしていたモレーム修道院を皮切りに幾つかの修道院に滞在、あるいは設立したが納得できず、最終的にの人も通わぬ山奥に6人の仲間とともにたどり着いた。そして1084年、その標高1000メートルほどの奥地にグランド・シャルトリューズを創建した。これは当時2つの修道院からなり、1つは聖職者修道士のための、他方は信徒修道士のための修道院であった(現存しているのは信徒修道士用のほうであるが、改築を繰り返したため当時の面影は残っていない)。 やがてブルーノは紆余曲折の末この修道院から離れざるを得ず、そして終生もどることはなかった。修道会規則が教皇に認可されたのはブルーノの死後、1164年4月17日付けの教皇勅書においてであった。 ケルンのブルーノは勢力の拡大には興味がなかった(むしろ修道会という組織に興味がなかった)ようで、死の間際に至っても多くの修道院を設立すること許可はしなかった。同時期に創立されたシトー会が12-13世紀を通じて急速に拡大したのと対照的に、カルトジオ会は1200年ごろにおいてもヨーロッパに37の修道院を持つに過ぎなかった。しかしその後、神秘主義が流行した14-15世紀には盛り上がりを見せ、195の修道院を持つまでに至った。隠棲を旨とするカルトジオ会の修道士も、続く16世紀の宗教改革の時代には抗争に巻き込まれ多くの殉教者は出したがそれゆえに共感を得、18世紀初頭には295の修道院を持っていた。一方18世紀、啓蒙主義の時代に入ると批判と攻撃にさらされ、例えばオーストリアのヨーゼフ2世は域内全ての修道院を廃止した。20世紀中ごろにはヨーロッパ全域でも19に留まる修道院数にまで減少していた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「カルトジオ会」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Carthusians 」があります。 スポンサード リンク
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