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カルト朝 ( リダイレクト:クルト朝 ) : ウィキペディア日本語版
クルト朝[くるとあさ]

クルト朝(Kurt dynasty)は、13世紀から14世紀にかけてイラン東部のホラーサーン地方を支配した、タジク人〔ドーソン『モンゴル帝国史』6巻、379頁〕〔M.J. Gohari, ''Taliban: Ascent to Power'', (Oxford University Press, 2000), 4.〕のスンナ派〔Farhad Daftary, ''The Ismāī̀līs: Their History and Doctrines'', (Cambridge University Press, 1999), 445.〕〔ルスタン・ラフマナリエフ「チムールの帝国」『アイハヌム 2008』収録(加藤九祚訳, 東海大学出版会, 2008年10月)、60-62頁〕イスラム教徒の王朝。首都はホラーサーン地方の都市ヘラートカルト朝(Kart dynasty)とも表記されるが、いずれの表記が正確なのかは定説が無く、王朝の名前の由来となった「クルト」の意味も明確になっていない〔本田「ヘラートのクルト政権の成立」『東洋史研究』21巻2号、42-43頁〕。
クルト朝の王家は元々はゴール朝スルターンギヤースッディーン・ムハンマドの封臣であり、ゴール朝の王室とつながりを持っていた〔M.J. Gohari, ''Taliban: Ascent to Power'', 4.〕。
13世紀半ばに、クルト朝はモンゴル帝国に臣従を誓う〔C.E. Bosworth, ''The New Islamic Dynasties'', (Columbia University Press, 1996), 263.〕。モンゴル帝国の王族フレグが建国したイルハン国が成立した後はその臣従国としてアフガニスタンに相当する地域を支配し、クルト家はフレグ一門と婚姻関係を結んだ〔井谷鋼造「トルコ民族の活動と西アジアのモンゴル支配時代」『西アジア史 2 イラン・トルコ』収録(永田雄三編, 新版世界各国史, 山川出版社, 2002年8月)、146頁〕。1335年にイルハン国が無政府状態に陥った後、クルト朝の君主ムイズッディーン・フセインは王朝の勢力の拡大に努めた。クルト朝の統治下でモンゴル帝国の破壊によって荒廃したホラーサーン地方が復興されるとともに同地のイラン文化が維持されたが〔本田「ヘラートのクルト政権の成立」『東洋史研究』21巻2号、42-43頁〕、1381年ティムール朝の攻撃によって王朝は滅亡した〔C.E. Bosworth, ''The New Islamic Dynasties'', 263.〕。
== 歴史 ==

=== ゴール朝時代 ===
クルト朝の王統はゴール朝の貴族シャンサバーニー家に連なる〔。クルト家をセルジューク朝スルターンマリク・シャーの末裔とする説も存在する〔本田「ヘラートのクルト政権の成立」『東洋史研究』21巻2号、71頁〕。
王朝の祖であるタージュッディーン・オスマーン・マルガーニーは、ギヤースッディーン・ムハンマドの宰相イズッディーン・オマル・マルガーニーの弟にあたる〔ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、133頁〕〔本田「ヘラートのクルト政権の成立」『東洋史研究』21巻2号、40頁〕〔Edward G. Browne, ''A Literary History of Persia: Tartar Dominion 1265-1502'', (Ibex Publishers, 1997), 174.〕〔The founder of the Kurt dynasty was Malik Rukn-uddin Abu Bakr, who was descended from the Shansabani family of Ghur.〕。タージュッディーンは、兄からヘラートの東に位置するハイサル城を領地として与えられた〔ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、133-134頁〕。
タージュッディーンの死後、彼の子であるルクンッディーン・アブー・バクルが跡を継いだ。ルクンッディーンはモンゴル帝国がゴール地方に侵入した際にいちはやくチンギス・ハーンに臣従を誓った〔本田「ヘラートのクルト政権の成立」『東洋史研究』21巻2号、40-41頁〕。
ルクンッディーンはギヤースッディーン・ムハンマドの王女と結婚し、1245年に2人の子であるシャムスッディーン・ムハンマドが父の跡を継ぐ〔。シャムスッディーンはマリク(Malik、「王」の意)の称号を名乗った〔本田「カルト朝」『アジア歴史事典』2巻、244-245頁〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Kurt dynasty 」があります。




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