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カルナールの戦い : ミニ英和和英辞書
カルナールの戦い[かるなーるのたたかい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 
戦い : [たたかい]
 【名詞】 1. battle 2. fight 3. struggle 4. conflict 

カルナールの戦い : ウィキペディア日本語版
カルナールの戦い[かるなーるのたたかい]

カルナールの戦い(カルナールのたたかい、ペルシア語:جنگ کرنال, 英語:Battle of Karnal)は、1739年2月24日インドカルナールにおいて、ムガル帝国アフシャール朝イランのと間に行われたナーディル・シャーのインド侵攻中に行われた戦闘。
この戦いはアフシャール朝の圧勝に終わり、ムガル帝国は大勢の将兵を失い、甚大な損害を被った。負けたムガル帝国はイラン側と講し、ナーディル・シャーをデリーに入城させたものの、結局はデリーを破壊された。カルナールの敗戦は帝国の衰退に直接的につながる戦いの一つでもあった。
==戦闘に至る経緯==
1738年以降、アフシャール朝の君主ナーディル・シャームガル帝国領に侵攻し、すでにアフガニスタンカーブルが奪取され、イラン軍は帝都デリーに向けて進軍していた。そして、同年末にはインド北西部にまで侵攻した。
だが、派閥争いをしていた貴族らは派閥争いをやめず、防衛の指揮系統や防衛方法すら合意に至らずにあいまいなままで、彼らは相互に猜疑心と嫉妬心に駆られていた〔小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.227〕〔チャンドラ『近代インドの歴史』、p.10〕。
このように貴族らが争っていた結果、皇帝親征の軍勢がデリーを出発したのは2月になってからであった。とはいえ、帝国は寄せ集めといえど、歩兵・騎兵20万、非戦闘員10万、象軍2千、大砲3千門という大軍勢を用意することが出来た。ムガル帝国の必殺ともいえる攻撃は大規模な象軍による攻撃であった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「カルナールの戦い」の詳細全文を読む




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