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カルロス・ウゴ・デ・ボルボン=パルマ・イ・ボルボン=ブセ(, 1930年4月8日 - 2010年8月18日)は、イタリアの旧諸侯パルマ公爵家の家長(1977年 - 2010年)、スペインのカルリスタ王位請求者(1975年 - 2010年)。イタリア語名はカルロ・ウーゴ・ディ・ボルボーネ=パルマ()。最後のパルマ公ロベルト1世の孫にあたる。守旧派のの領袖でありながら自主管理社会主義に基づく君主制の樹立を主張し〔若松隆『スペイン現代史』 岩波新書、1992年、P.96。〕、カルリスタ勢力の分裂を招いた。1979年にフアン・カルロス1世治下のスペインに帰化して政治活動から退いた。 == 生涯 == ボルボーネ=パルマ公子サヴェリオ(グザヴィエ/ハビエル)とその妻のの間の長男(第2子)ユーグとして生まれた。母はブルボン公ピエール2世の弟リエージュ司教の庶子に始まるブルボン=ビュッセ家()の末裔である。 父は1936年にカルリスタ正統系の最後の当主サン・ハイメ公アルフォンソ・カルロスから後継者に指名され、1952年にカルリスタのスペイン王位請求者となることを宣言した。しかしスペイン総統フランシスコ・フランコは次期国王にスペイン王アルフォンソ13世の孫フアン・カルロス王子を選んでおり、この主張を無視した。1957年5月5日、ユーグは父サヴェリオから王位継承者に指名され、アストゥリアス公およびサン・ハイメ公に叙爵された。ユーグは1963年6月28日にパリのセーヌ控訴裁判所の認可によりシャルル・ユーグ()と改名し、これ以降はスペインでの政治活動でも「カルロス・ウゴ()」として知られるようになった。1964年2月には、父によりマドリード公に叙爵された。 1963年、スペイン留学中だったオランダ女王ユリアナの次女王女と知り合って婚約したが、この婚約はオランダにおいて憲政上の危機を引き起こした。オランダ王室は伝統的にプロテスタント信徒で、カトリック信徒が王子女の配偶者になることは忌避されており、2人の婚約はその暗黙の前提を破るものだった。またオランダ政府が王位継承権者の配偶者としてカルロス・ウゴを承認することは、スペインのカルリスタ党に支持を与えたと捉えられる危険性があった。このためオランダ政府はイレーネ王女の結婚に法的認可を与えず、イレーネ王女は王位継承権を剥奪された。 2人の結婚式は1964年4月29日、ローマのサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂内ボルゲーゼ礼拝堂において執り行われた。婚礼の主宰者は前オランダ駐在教皇特使の枢機卿だった〔"Carlist Colours Flaunted at Princess's Marriage", ''The Times'' (30 April 1964): 14.〕。オランダ王室の成員は1人も出席せず、イレーネの両親は娘の結婚式をテレビで見た〔"Queen Juliana Sees It on Television", ''The Times'' (30 April 1964): 14.〕。夫妻は挙式後に揃って教皇パウロ6世に謁見し、カナリア諸島での新婚旅行ののちにマドリードに居を構えた〔Josep Carles Clement, ''Carlos Hugo de Borbon Parma: Historia de una disidencia'' (Barcelona: Planeta, 2001), 121.〕。夫妻は間に4人の子女を儲けた後、1981年5月28日に離婚した〔Het Koninklijk Huis | Prinses Irene (official website of the Royal House of Orange) 〕。 1965年以降、カルロス・ウゴはフランコ総統に接近しようと努める一方で、左翼のチトー主義の信奉者となり、自主管理社会主義・連邦主義のスペインへの導入を唱えて社会主義者に接近した。母マドレーヌと弟シクスト・エンリケはカルロス・ウゴの政治方針に反発し、伝統的な守旧派カルリスタ党の支持を受けて、カルロス・ウゴから離反した。1968年末、フアン・カルロスの正式な王位継承者指名を目前に控えたスペイン政府によって、その対抗馬の1人であるカルロス・ウゴは一時的にスペインから追放されている〔若松、P.80。〕。 1975年4月、父から正式にカルリスタ王位請求者の地位を譲られた。カルリスタ党は伝統主義者の党派として続いてきたが、フランコ時代を経ていくつもの派閥に分裂しており、その活動はもはや国民の大きな関心を引き付けることは出来なくなっていた。1976年5月には、カルロス・ウゴを支持するカルリスタ党の年次大会の最中に、2人の党員がイタリア人ネオファシストのらによって射殺される事件が起きた。この〔Crimes of Montejurra (translation) 〕の背後にはスペイン政府情報部やグアルディア・シビル内のフランコ信奉者グループがいた〔"Montejurra-76: crimen de Estado sin castigo" , ''El Mundo'', 6 May 2001〕〔CARCEDO, Diego: ''Sáenz de Santamaría: el general que cambio de bando'', ISBN 84-8460-309-1〕。 1977年の総選挙では、カルリスタ党はフィデル・カラソ・エルナンデスをレオン県選出の上院議員に選出させるのに貢献したが、カラソは無所属議員として活動し、カルリスタ党を顧みなかった。同党は1979年の総選挙ではに合流したが、この政党から国会議員に当選したのはフランコ支持者ののみだった。カルリスタ党は完全に議会勢力から外れ、2つの市議会議員席を得るに留まった。こうした状況の中で、カルロス・ウゴは1979年にカルリスタ党の政治活動を断念し、フアン・カルロス1世の特旨によってスペイン国籍を与えられた。そして翌1980年、自身が政党として組織したカルリスタ党からの脱退を宣言した。彼の支持者たちは後に統一左翼連合の結成に参加した。 2002年、スペイン国立歴史公文書館にパルマ公爵家所有の歴史文書を寄贈したが、弟のシクスト・エンリケはこれに反対する声明を出した。2003年9月23日、カルロス・ウゴは南仏の(ピレネー=アトランティック県バイヨンヌ郡)において、カルリスタの王位への復帰を宣言した〔Palabras de S.A.R. el Príncipe Don Carlos Hugo de Borbón Parma en al acto de imposición de cruces de la Orden de la Legitimad Proscrita, celebrado el domingo día 28 de septiembre de 2003 en Arbonne (Francia) 〕。その際、自らはモンテモリン伯爵を名乗り、自身の4人の子供たちにも叙爵を行った。 2010年、前立腺癌のために80歳で死去した〔。遺骸はバルセロナから元妻と子供たちの暮らすオランダのデン・ハーグに送られ、敷地内の聖堂で遺族やオランダ王室の親類たちと対面した。その後、遺骸はイタリアのパルマに移され、歴代のパルマ公が眠るの霊廟に安置された〔Prince Carlos-Hugo 2010 – arrangements – The Benelux Royals Message Board〕〔Lichaam prins Carlos vrijdag naar Nederland – Website telegraaf.nl ''(オランダ語)''〕 。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「カルロス・ウゴ・デ・ボルボン=パルマ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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