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カルロス・ホセ・エストラーダ(Carlos José Estrada、1946年〔『新日本プロレス 来日外国人選手 PERFECTカタログ』P38(2002年、日本スポーツ出版社)〕 - )は、プエルトリコ・ポンセ出身の元プロレスラー。 ニューヨークのWWWF / WWFやプエルトリコのWWCを主戦場に、ヒールのジョバーとして活動した。WWE殿堂者ジョニー・ロッズの弟とされている〔。 == 来歴 == 少年期に家族でニューヨークのスパニッシュ・ハーレムに移住し、1975年にプロレス入りしたとされる〔。1978年1月20日、王座決定戦にてトニー・ガレアを破り、復活したWWWFジュニアヘビー級王座を獲得。3日後の1月23日、マディソン・スクエア・ガーデンにて藤波辰巳に敗れ短命王者で終わるも、後の日本におけるドラゴン・ブームの露払い役を担った。翌1979年1月、新日本プロレスに初来日している〔。 以降もWWFでは前座要員のヒールとして、MSG定期戦ではニューカマーやゲスト出場選手のジョバーを担当。1980年3月24日にはMSGに初登場したケリー・フォン・エリックのジョバーを務め、12月29日には同年に新日本プロレスに入団した谷津嘉章のプロデビュー戦の相手に起用された。同年は9月22日の定期戦において、当時レス・ソントンが保持していたNWA世界ジュニアヘビー級王座にも挑戦している〔。 新日本プロレスには1982年4月と1983年1月にも再来日し、当時人気絶頂だった初代タイガーマスクとも対戦。1982年11月23日のMSG定期戦では、ニューヨークに遠征してきたタイガーマスクのWWFジュニアヘビー級王座に挑戦したが、奪還は果たせなかった〔。 1983年下期、プエルトリコのWWCで覆面レスラーのスーパー・メディコ(Super Médico)に変身。WWFでの盟友であり兄ともされるジョニー・ロッズとのスーパー・メディコス(スーパー・メディックス)で活動し、1983年9月10日にペドロ・モラレス&カルロス・コロンからWWC世界タッグ王座を奪取した。1985年3月2日にはインベーダー3号と組んでブッチ・ミラー&ルーク・ウィリアムスのザ・シープハーダーズを破り北米タッグ王座にも戴冠、シングルではプエルトリカン・ヘビー級王座を再三獲得した。1986年8月にはスーパー・メディコとして全日本プロレスに来日している。 1987年末、WWFにて同じくプエルトリコ系のジョバーだったホセ・ルイス・リベラをパートナーに、中南米の侵略者コンキスタドールを名乗った覆面タッグチーム "The Conquistadors(Los Conquistadores)" を結成。エル・ドラードをイメージした金色のマスクと全身タイツを身に付け、ブリティッシュ・ブルドッグスやハート・ファウンデーションをはじめベビーフェイスのタッグチームのジョバーを務めた。1988年11月24日のサバイバー・シリーズにおけるタッグチーム・エリミネーション・マッチでは、ヒール陣営の最後の生き残りチームとなるなど予想外の活躍を見せた。後年、彼らのギミックはアティテュード期のWWFにおいて、エッジ&クリスチャンによってパロディとしてリメイクされている。 WWFには素顔とコンキスタドールのギミックを使い分け、1989年まで出場。その後はWWCに定着し、再びスーパー・メディコとして活動。スーパー・メディコ3号こと息子のホセ・エストラーダ・ジュニアを新パートナーに、WWC世界タッグ王座やカリビアン・タッグ王座を幾度となく奪取している〔。キャリア最末期の1992年12月には、ビクター・キニョネスのブッキングでW★INGプロモーションに来日した。 引退後はWWCにてヒールのマネージャーとなって活動。2007年7月13日に行われたWWCのアニバーサリー・ショーでは、レジェンド・マッチと銘打ってカルロス・コロンとタッグマッチで対戦した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「カルロス・ホセ・エストラーダ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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