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カルロ・ルドヴィーコ・ディ・ボルボーネ(Carlo Ludovico di Borbone, 1799年12月27日 - 1883年5月17日)は、カルロ2世ルイージ・ディ・パルマ(Carlo II Luigi di Parma)とも言い、エトルリア王(在位:1803年 - 1807年)、ルッカ公(在位:1815年 - 1847年)、パルマ・ピアチェンツァ公(在位:1847年 - 1848年)である。 カルロの祖父フェルナンドは1765年から1802年までパルマ公であった。フェルディナンドがナポレオン・ボナパルトに廃位された時、その息子ルドヴィーコ、つまりカルロ・ルドヴィーコの父はナポレオンがトスカーナ大公国に代えて新たに建てたエトルリア王国の王となった。 カルロ・ルドヴィーコは1803年に、スペイン王カルロス4世の娘である母マリーア・ルイーザ・ディ・ボルボーネの摂政の下で父の後を継いだ。しかし、1807年にナポレオンの軍隊によって捕らえられ、エトルリアから北ルシタニア(ポルトガル北部)の王位に変更を約束された。 ナポレオン失墜後の1815年、ブルボン=パルマ家はパルマ公国を回復できず、パルマはナポレオンの妻マリーア・ルイージャに与えられた。カルロ・ルドヴィーコには代償としてルッカ公国が与えられた。このルッカ公国はカルロ・ルドヴィーゴのパルマ公即位後には廃絶され、トスカーナ大公国へと併合されることとなっていた。 マリーア・ルイージャの死んだ1847年、カルロ・ルドヴィーコはパルマ公カルロ2世(Carlo II)としてその後を継いだ。ルッカはトスカーナ大公国に組み入れられた。しかし翌年1848年革命が勃発すると国外亡命を余儀なくされ、その後オーストリア帝国の援助を得て帰国を果たすものの直後に起きた第一次イタリア統一戦争でサルデーニャ王国の攻撃を受け、混乱の中で退位を余儀なくされた。しかし第一次イタリア統一戦争ではオーストリアが勝利したために結局パルマ公国は存続し、妃マリーア・テレーザ・ディ・サヴォイアとの間の息子カルロ3世が公位を継いだ。 退位後カルロ・ルドヴィーゴはフランスに移り、ヴィラフランカ伯爵と名乗って余生を送り、1883年にニースで没した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「カルロ2世 (パルマ公)」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Charles II, Duke of Parma 」があります。 スポンサード リンク
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