|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
カンタベリーのアンセルムス(, 1033年 - 1109年4月21日)は中世ヨーロッパの神学者、かつ哲学者であり、1093年から亡くなるまで カンタベリー大司教の座にあった。カトリック教会で聖人。日本のカトリック教会ではカンタベリーの聖アンセルモ〔『YOUCAT(日本語)――カトリック教会の青年向けカテキズム』日本カトリック司教協議会青少年司牧部門訳、カトリック中央協議会、2013年6月30日、ISBN:978-4-87750-174-7、p178〕、聖アンセルモ司教教会博士とも呼ばれる。初めて理性的、学術的に神を把握しようと努めた人物であり、それゆえ一般的に、彼を始めとして興隆する中世の学術形態「スコラ学の父」と呼ばれる。神の本体論的(存在論的)存在証明でも有名。 聖アンセルモ司教教会博士とも呼ばれる。初めて理性的、学術的に神を把握しようと努めた人物であり、それゆえ一般的に、彼を始めとして興隆する中世の学術形態「スコラ学の父」と呼ばれる。神の本体論的(存在論的)存在証明でも有名。 ==生涯== ===ル・ベックの修道士=== 神聖ローマ帝国治下のブルグンド王国の都市アオスタで誕生した。アオスタは、今日のフランスとスイス両国の国境と接する、イタリアのヴァッレ・ダオスタ州に位置する。父のガンドルフォはランゴバルドの貴族であり、また母のエルメンベルガもブルグンドの貴族の出自であり、大地主であった。 父は息子に政治家の道を歩ませたかったが、アンセルムスはむしろ思慮深く高潔な母の敬虔な信仰に大いに影響された。15歳の時、修道院に入ることを希望したが、父の了承を得ることはできなかった。失望したアンセルムスは心因性の病を患い、その病から回復して一時の間、彼は神学の道をあきらめ、放埓な生活を送ったといわれる。この間に彼の真摯な気持ちを理解してくれていた母が亡くなったため、アンセルムスはこれ以上父の激しい性格に我慢ならなくなった。1056年(もしくは1057年)に家を出たアンセルムスはブルグンドとフランスを歩いてまわった。その途中、ブルグンドにあるベネディクト会クリュニー修道院、その系列のル・ベック修道院の副院長を当時務めていたランフランクスの高名を聞きつけ、アンセルムスは同修道院のあるノルマンディーに向かう。そして滞在していた1年間の内に、同修道院で修道士として生きることを決意する。アンセルムスが27歳の時のことである。また、幼い頃からすばらしい教育を受けてきたアンセルムスの才能が開花するのはこの時からである。 3年後の1063年、ランフランクスがカーンの修道院長に任命された時、アンセルムスはル・ベック修道院の副院長に選出された。彼はその後15年間にわたってその座にあり、1078年、ル・ベック修道院の創設者であり初代修道院長であるハールインの死によって、アンセルムスは同修道院長に選出された。彼自身は積極的に推し進めたわけではないが、アンセルムスの下で、ベックはヨーロッパ中に知られる神学の場となった。この期間に、アンセルムスの最初の護教論文『モノロギオン』(1076年)と『プロスロギオン』(1077-78年)が書かれた。また、問答作品『真理について』、『選択の自由について』、そして『悪魔の堕落について』が書かれたのもこの時期である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アンセルムス」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Anselm of Canterbury 」があります。 スポンサード リンク
|