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カンブレーの戦い : ミニ英和和英辞書
カンブレーの戦い[かんぶれーのたたかい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 
戦い : [たたかい]
 【名詞】 1. battle 2. fight 3. struggle 4. conflict 

カンブレーの戦い : ウィキペディア日本語版
カンブレーの戦い[かんぶれーのたたかい]

カンブレーの戦いとは、1917年11月20日から12月7日にかけて行われた、第一次世界大戦におけるイギリスの攻勢作戦である。フランスのノール県ノール=パ・ド・カレー地域圏に所在)にあるカンブレーは、当時ドイツ軍のヒンデンブルク線の一部であるジークフリート線のための重要な補給地点であった。また、近在のブルロンの丘陵には、北方のドイツ軍前線の後背を脅かすという優れた利点があった。この作戦では、実験的に砲兵を運用することも予定されていた。第9歩兵師団の司令官であったヘンリー・ヒュー・チューダー少将は、新しい歩砲連合の戦法を、彼の担当する戦区で施行することを提案した。
作戦準備段階で、王立戦車軍団(Royal Tank Corps, RTC)〔当時のイギリス軍は、機関銃や戦車といった最新兵器の部隊を機関銃軍団(:en:Machine_Gun_Corps)や王立戦車軍団に配属し、大隊・中隊といった単位で、必要に応じて歩兵師団など在来部隊の指揮下に送っていた。多くの兵科では訓練などを統括するadministrative corpsが置かれるが、戦車部隊のRoyal Armored Corps(:en:Royal_Armoured_Corps)は1939年に創設され、RTCはRTR(:en:Royal_Tank_Regiment)と改称したうえでRACの下部組織となった。〕の参謀将校であったジョン・フレデリック・チャールズ・フラーは、奇襲部隊として戦車を投入するための場所を模索していた。ジュリアン・ビング大将はイギリス第3軍の指揮官についており、戦車部隊を攻撃に参加させることを決定した。
本作戦は、諸兵科連合の作戦を行った際に、最初に戦車を大量投入したとしてしばしば注目される。しかしフランス軍は既に1917年4月に130両以上、5月に48両、10月に92両と、自軍に大量の戦車を配備し、またイギリス軍も同年6月から7月、イープルにて200両以上を展開していた。カンブレー緒戦においてマークIV戦車は成功を収めたが、砲歩兵からなるドイツ軍の守備部隊は、マークIVの装甲の弱点を見つけ出し、これらの車輌は戦闘の2日目以後ほぼ無力化されていた。この戦闘はおおまかに言って、強力な防御陣地に対する奇襲攻撃と技術的優勢を達成した歩砲連合部隊の交戦である。しかし弱かったドイツ側の歩兵と砲兵の防御力は速やかに増強された。イギリス側の攻撃は、ドイツ軍の保持するヒンデンブルク線が突破可能なことを事実として証明した。また、敵砲兵陣地の音源標定や浸透戦術のような、新しい砲兵・歩兵の運用法の価値を示した。これは後の百日攻勢 (最終攻勢) で重要な役割を果たすこととなる。
この戦闘を戦車戦だったとする一般的な認識は、大半が、歴史家としては偏った見方をしたベイジル・リデル=ハートとJ・F・C・フラーの著述の結果である。彼らの著述は作戦計画への貢献を不正に主張している。ダグラス・ヘイグを批判するリデル=ハートは、この戦いをドクトリンの「新しい」形を示すものとして使おうとした。1925年から1939年にかけてデイリー・テレグラフおよびタイムズ紙の軍事担当記者であったリデル・ハートの地位が、大衆に広く訴えかけ、はなはだしい影響を与えることを可能にしたのである〔Hammond 2009, p. 430〕。近年のいくつかの研究やイギリスの公式戦史では、この戦いにおける彼らの見解を否定している〔Hammond 2009, pp. 429-430〕。
== イギリス側の計画 ==
イギリス軍の作戦は、第9歩兵師団の砲兵司令官ヘンリー・ヒュー・チューダーの構想から始まった。1917年8月の時点で彼は准将であり、彼と指揮下の部隊が配置についたIV軍団の場所で、奇襲攻撃の着想を得た。チューダー准将は歩砲連合を主とする攻撃を提案した。またこの作戦は、ドイツ軍の保持するヒンデンブルク線の突破口を確保するため、少数の戦車部隊で支援されうるものだった。ドイツ軍の防衛力は恐るべきものであった。カンブレーはそれまで前線における静かな区域であったため、ドイツ軍は彼らの前線をより縦深的に防御でき、またイギリス側はこれを認知していた。チューダー准将の計画は砲兵と歩兵の戦法に重点を置いた兵科連合における新戦術を試み、強力なドイツ軍の防御陣地に対してこれらがどの程度効果的かを確かめようとするものだった。チューダー准将は、音源標定(敵の砲位置を発砲音から推定する技術)の使用と、敵の砲に反撃しない「無言の標定」を主張し、即座の制圧射撃と奇襲を達成しようとした。チューダー准将はまた、広大な有刺鉄線による防御を排除するために戦車の投入を試み、機甲部隊の支援として、榴弾の爆発によってクレーターができないように設計されたNo. 106榴弾信管を用いることにした〔Hammond 2009, p. 57.〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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