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カンボジア共産党 : ミニ英和和英辞書
カンボジア共産党[かんぼじあ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

カンボジア : [かんぼじあ]
 (n) Cambodia, (n) Cambodia
: [ども]
  1. (suf) indicates plural - humble referring to oneself, disdainful referring to others 
共産 : [きょうさん]
 【名詞】 1. communism 
共産党 : [きょうさんとう]
 【名詞】 1. Communist Party 
: [うぶ]
  1. (adj-no) innocent 2. naive 3. unsophisticated 4. inexperienced 5. green 6. wet behind the ears
: [とう]
  1. (n,n-suf) (1) party (political) 2. (2) faction 3. -ite 

カンボジア共産党 ( リダイレクト:クメール・ルージュ ) : ウィキペディア日本語版
クメール・ルージュ[とう]

クメール・ルージュ(、、中国語:紅色高棉)は、かつて存在したカンボジアの政治勢力、及び武装組織。民主カンプチアにおけるカンプチア共産党とサロット・サル(ポル・ポト)による独裁体制を支え、民主カンプチア崩壊後はカンプチア人民共和国やカンボジア王国への抵抗を行った勢力の総称として用いられる。
「クメール・ルージュ」(赤色のクメール)という俗称はロン・ノル政権前のノロドム・シハヌーク時代、反サンクムの武闘左翼勢力をさしてシハヌークがつけた呼称である〔井川一久編著「新版カンボジア黙示録」田畑書店 p.203、ISBN 4-8038-0205-X〕。その後、内戦時代を経てカンプチア共産党を初めとする諸政党を粛清したサロット・サル(ポル・ポト)が率いる政治勢力と同義語となった。他勢力との類似や混同を混乱を避けるためにポル・ポト派とも呼ばれる。
== 概要 ==
1953年ノロドム・シハヌーク国王のもとでカンボジアが独立すると、極左武装勢力クメール・ルージュは反シハヌーク闘争を開始した。1960年代、ベトナム戦争により国内は不安定となったものの、シハヌーク政権時代には爆撃・内戦は局地的にとどまり、食糧は輸出するほど豊富で大量の国内避難民も発生していなかった。この当時クメール・ルージュはまだ弱小勢力だった。
1967年4月、バタンバン州のサムロートで、政府による余剰米強制的安値買い付けに反対する農民と地元政府の間で衝突が起こる〔清野 真巳子『禁じられた稲-カンボジア現代史紀行』連合出版、p.42〕〔『NAM』同朋舎出版、見聞社編、p.532〕。1965年頃からカンボジアの余剰米の少なくとも4分の1あまりが北ベトナムとベトコンに買い上げられていたが、政府の買い付け値はベトナム人による買い付け値よりも安かったのである〔デービッド・P・チャンドラー,『ポル・ポト伝』めこん、p.131〕。サムロート周辺の掃討作戦は数ヶ月間続き、左右の衝突が増え、共産主義者への弾圧が強化される。
1970年アメリカに支持されたロン・ノルクーデターで王政が廃位された直後、アメリカ軍南ベトナム軍がホーチミンルート南ベトナム解放民族戦線を追撃するためカンボジア領内に侵攻。さらにこれまで局地的であった米軍の空爆は人口密集地域を含むカンボジア全域に拡大され、空爆開始からわずか一年半の間に200万人が国内難民化した〔ダニエル・エルズバーグ著「ベトナム戦争報告」p174,筑摩書房〕。とくに東部は人口が集中する都市部なども重点的に爆撃を受けた〔エール大学Cambodian Genocide Program:http://www.yale.edu/cgp/us.html〕。この事態を受けてシハヌークは亡命先の北京でカンプチア民族統一戦線を結成、反米・反ロン・ノル諸派の共闘を呼びかける。1970年3月末にはコンポンチャムでシハヌークを支持する暴動が起きたが、武力鎮圧された。当時の州知事によればこの地域だけで2-3万人の農民が共産主義の影響を受けていた〔Los Angeles Times 30.March.1970〕。その他タケオ・スヴァイリエン、カンダルなど諸州の州都で同様の蜂起が起こるも、武力で鎮圧された。
クメール・ルージュ勢力が伸張した背景には、シハヌークがロン・ノルにより追放された後、クメール・ルージュ側についたことで国王を慕う農民層がクメール・ルージュを支持するようになったこと、及びロン・ノル政権の腐敗に対する大衆の反発と、冷戦下における中華人民共和国中国共産党による支援があった。また当時、ウィリアム・ウェストモーランド将軍が率いるアメリカ軍は、第二次世界大戦で日本に投下した総量の3倍もの爆弾をカンボジアに投下し、数十万の農民が犠牲となった。これにより農業インフラは徹底的に破壊され、カンボジアは食糧輸出国から輸入国へ転落した。
カンボジアの食糧生産は1969年には耕作面積249万ヘクタールを有し米23万トンを輸出していたが、1974年には耕作面積5万ヘクタールに激減し28万2000トンの米を輸入し、米の値段は1971年10リアルから1975年340リアルにまで急騰した〔「インドシナ現代史」p103,連合出版〕。1971年アメリカ会計監査院の視察団はカンボジアの深刻な食糧不足を報告している〔「インドシナ現代史」p104,連合出版〕。こうした状況のなか、都市部は米国からの食糧援助で食いつなぐことができたが、援助のいきわたらない農村部では大規模な飢餓の危機が進行しつつあった。
クメール・ルージュのイデオロギーは、ヨーロッパ撤退後の反植民地主義と極端な毛沢東思想を組み合わせたものである。党の指導層は、1950年代のフランスの大学への留学中に、そうした思想に親しんだ。またカンボジアの共産主義者の間には、ベトナム人への長い服従に対する反感があった。彼らは政権を握った時、カンボジアの社会にかつて思い描かれた原始共産制への移行の強制を試みた。党中央が毛沢東思想に染まっていく上では中国共産党の康生の薫陶によるところが大きく、康生はポル・ポトを「毛沢東思想のもっとも忠実な実践者」として賞賛した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「クメール・ルージュ」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Khmer Rouge 」があります。




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