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カンボジア特別法廷(カンボジアとくべつほうてい、)は、1975年から1979年のカンボジアでクメール・ルージュ政権によって行われた虐殺等の重大な犯罪について、政権の上級指導者・責任者を裁くことを目的として、2001年、同国裁判所の特別部として設立された裁判所。2003年6月、カンボジア政府と国際連合との協定が成立し、国連の関与の下、2006年7月から運営を開始した。略称、ECCC。 2012年現在までに、5人の被告人が起訴され、うち1名の有罪判決が確定した。1名は認知症で裁判が停止されたまま死去、1名は公判中に死去、その他の2名について裁判が進行中である。その他の被疑者数名についても捜査が行われている。 == 沿革 == === クメール・ルージュによる虐殺とカンボジア内戦 === カンボジアでは、1970年代後半、ポル・ポト率いる共産主義政党クメール・ルージュが政権を握った。1975年4月17日、クメール・ルージュ軍は首都プノンペンを占領し、親米のロン・ノル政権(クメール共和国)を打倒した(後に国名を民主カンプチアと改称)。クメール・ルージュは、中国文化大革命の思想の影響の下に、知識人批判、学校・教育制度の解体、仏教を含む伝統的な価値観の否定など、過激な政策を実行していった。都市住民の強制大量疎開や、強制労働を実施したほか、ロン・ノル政権時代の行政官・軍関係者をはじめとして、知識人、教育関係者、仏教・イスラム教関係者、少数民族、党内外の反対派を次々に粛清した。クメール・ルージュが政権を握っていた約3年8箇月の間にカンボジアで失われた人命は、アメリカ中央情報局の推計によれば約170万人から約200万人、ミィ・サムディ教授(プノンペン国立医科大学)の推計によれば224万人とされる〔小倉 (2003: 58-63);熊岡 (2008)。〕。 1979年1月7日にベトナム軍の侵攻によりクメール・ルージュは政権を追われ、ゲリラ勢力となった。その後、反ベトナムのクメール・ルージュ、シハヌーク王党派、ソン・サン共和派の3派連合政権と、プノンペンに成立した親ベトナム(親ソ連)のヘン・サムリン政権(カンプチア人民共和国)との間で内戦が続いた〔小倉 (2003: 59);熊岡 (2008)。〕。1979年7月15日、カンボジア人民革命評議会の緊急命令によりプノンペン特別市法廷 (en) が設置され、被告人欠席のまま、同年8月15日から19日まで裁判が行われ、ポル・ポト及びクメール・ルージュのナンバー2と言われたイエン・サリの2人に死刑が宣告された〔小倉 (2003: 60)。〕。 1990年、プノンペン政府のフン・セン首相と3派連合政権のシハヌークとの会談を機に和平プロセスが急速に進行し、1991年のパリ和平協定、1993年の制憲議会選挙を経て、シハヌークを国王としてカンボジア王国政府が成立した。しかし、クメール・ルージュは国連が要請した武装解除を拒否、選挙をボイコットして、和平プロセスから脱落した。1996年、イエン・サリが同党を離脱して恩赦と引換えにカンボジア王国政府に投降した。1998年にはタ・モクに身柄を拘束されていたポル・ポトが死亡し、そのタ・モクはカンボジア王国政府に逮捕され、さらに有力な指導者キュー・サムファン、ヌオン・チアが投降し、クメール・ルージュは崩壊した〔小倉 (2003: 58-60);熊岡 (2008)。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「カンボジア特別法廷」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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