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カート・ヘニング(Curt Hennig、本名:Curtis Michael Hennig、1958年3月28日 - 2003年2月10日)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。ミネソタ州ロビンズデール出身。なお、姓のスペリングにおいて "Henning" は誤りであり、読みも「ヘニッグ」が原音に近いが、本項では日本における慣例的な表記を使用する。 第34代AWA世界ヘビー級王者。WWEではミスター・パーフェクト(Mr. Perfect)のリングネームでも活躍した。父はAWAなどで活躍した名レスラー、ラリー・ヘニング。息子のジョー・ヘニングもプロレスラーである。 == 来歴 == 父親のラリー・ヘニングとバーン・ガニアのコーチを受け、1980年1月にデビュー。父も主戦場としていたガニア主宰のAWAを経て、ルーキー時代は太平洋岸北西部のオレゴンおよびワシントン州に拠点を置くパシフィック・ノースウエスト・レスリング(PNW)で活動。1982年4月27日にはラリーとの親子タッグでリップ・オリバー&マット・ボーンからNWAパシフィック・ノースウエスト・タッグ王座を奪取、タイトル初戴冠を果たした〔。 1982年10月から翌1983年上期にかけてはビンス・マクマホン・シニア時代のWWFをサーキット。ジミー・スヌーカ、レイ・スティーブンス、ドン・ムラコ、スーパースター・ビリー・グラハム、イワン・コロフ、ビッグ・ジョン・スタッドら大物選手のジョバーを務めながらキャリアを積み、WWFに遠征していた初代タイガーマスクとも対戦した。 1984年よりAWAに復帰。当時はWWFがビンス・マクマホン・ジュニアの新体制下で全米侵攻を開始し、AWAもハルク・ホーガンをはじめとするスター選手が大量に引き抜かれた直後だったこともあり、早くから頭角を現す。1986年1月18日、スコット・ホールと組んでジミー・ガービン&スティーブ・リーガルを破り、AWA世界タッグ王座を獲得。AWAの次代の主役候補と期待され、1987年5月2日にはニック・ボックウィンクルを下してAWA世界ヘビー級王者となる。ラリー・ズビスコが試合に介入したとしてタイトルは一時預かりになるも、最終的にはヘニングの王座奪取が認められた〔。デビュー以来ベビーフェイスのポジションにいたが、これを機にヒールターンを行い、それまでタッグを組んでいたグレッグ・ガニアやワフー・マクダニエルとも連戦を展開。翌1988年5月9日、ジェリー・ローラーにタイトルを奪われると自身もAWAを退団し、WWFに移籍した。 WWFでは「何をやっても完璧な男」というギミックが与えられ、ミスター・パーフェクトを名乗るエゴイスト系のヒールとして登場。初期はザ・ジニアス、後にボビー・ヒーナンをマネージャーにヒール陣営の主力選手に迎えられ、1990年4月23日には、前王者アルティメット・ウォリアーの返上で空位になっていたインターコンチネンタル・ヘビー級王座の新王者決定トーナメントにおいて、決勝でティト・サンタナを下し第16代IC王者となる。以降、8月27日のサマースラム1990でテキサス・トルネードに一時タイトルを奪われるも、11月19日のTVテーピングにて奪還し、翌1991年8月26日のサマースラム1991においてブレット・ハートに敗れるまで長期政権を築いた〔。 しかし、この時期より背中の負傷に悩まされ始め、選手としての活動を一時休止し、WCWから移籍してきたリック・フレアーのマネージャーを「エグゼクティブ・コンサルタント」と称して担当するようになる〔。しかし1992年11月、ランディ・サベージが同年のサバイバー・シリーズでのタッグパートナーを決める際、対戦相手であるリック・フレアー側のヘニングを指名し、ヘニングもこれを受諾。11月26日開催のサバイバー・シリーズ1992において1年3カ月ぶりのリング復帰を果たし、サベージと組んでフレアー&レイザー・ラモンに勝利。以降はベビーフェイスとしてフレアーやラモンとの抗争を開始した。1993年はレックス・ルガーやショーン・マイケルズとも抗争するが〔、背中の故障が再発したため1994年より再び戦列を離れ〔、TV放送のカラー・コメンテーターを務めた。その間はトレーナーとしても活動しており、ブロック・レスナー、ドン・フライ、ブライアン・ジョンストンらが教えを受けている。1996年には貴族ギミック時代のトリプルH(ハンター・ハースト・ヘルムスリー)のマネージャーも担当していた。 1997年、ライバル団体WCWに移籍。USヘビー級王座の獲得、nWoやフォー・ホースメンへの加入、バリー・ウインダムらとのカウボーイ系ユニット「ウエスト・テキサス・レッドネックス」(世界タッグ王座も奪取)などで活躍した後、2000年夏に退団。その後はプエルトリコのWWCに登場し、9月30日にカーリー・コロンを破りWWCユニバーサル・ヘビー級王座を獲得している。 2002年1月20日、ロイヤルランブル2002でWWEに復帰。同大会のロイヤルランブル・マッチでは最後の3人まで残るなど活躍したが、移動中の飛行機内で酒に酔い、ブロック・レスナーと諍いを起こしたことにより、3カ月後に契約を解除される〔。その後は当時旗揚げされたばかりのTNAに参戦し、ジェフ・ジャレットやロン・キリングスと対戦した。 2003年2月10日、試合出場のため訪れていたフロリダ州タンパのホテルで急死。検死の結果では急性コカイン中毒による死亡と報告され〔、ステロイドや鎮痛剤の過剰な服用も死因とされた。 没後の2007年4月、WWE殿堂に迎えられた。同年は息子のジョー・ヘニングが父ラリーの弟分だったハーリー・レイスの指導の下、WLWでプロレスラーとしてデビュー。その後WWEと契約し、下部団体FCWでの修行を経てRAWに昇格した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「カート・ヘニング」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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